深呼吸する言葉・ワナタベジンジンタロウ

おっさん中退・ジジイ見習い

ため息の効用/言葉・210

避けたいことがある。
例えば愚痴やため息、悪口。
今はまだ、そうしたことにつき合っている余裕がないからである。
ただ、思い出話と同様、ときに効用があるのだったが。
爆笑さえ生まれるときがあるのにだ。

▲『新緑』(写真)
「おっ」
踊っている。
木が。
動いていないのに、ふと、「自由だなあ」と。

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【視たぞ、視たぞ、『全身小説家』/今日も少しだけ】
 この休みで、「あらためて視てみるか」と思っていた映画がある。
 すると、
 [日语中字][原一男纪录片]全身小说家/日本旬报1994年十佳电影第一名 全身小説家 (1994)
 というタイトルで、ウェブ上にアップされていた。

 嘘つきみっちゃんこと、井上光晴氏のドキュメント映画だ。
全身小説家』である。

 以下は予告編だ。

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 きっかけは、娘の井上荒野氏の、『あちらにいる鬼』(朝日新聞出版)をパラパラとやったことによる。
 井上夫妻に瀬戸内寂聴氏が絡んだ、小説だ。
「大変だったろうな」と。

 ちなみに、映画を視始めた途端、「いやあ、まだ昭和の臭いが、色濃く残っているな」と感じていた。
 臭ってくるのだったが。
 
 それにしても、井上氏は、何を守ろうとして、嘘に嘘を重ねたのだろう。
 言葉には、「自分のための言葉と、他人のための言葉とがある」とも言っていたが、自分のために、どのような言葉を用意していたのだろう?
 母に捨てられたことが事実なら、その傷から己を守るために、どのような言葉を、自らに伝えていたのかと。

 映画を視終わった後、「直接うかがってみたかったな」と。
 わたしとしては、珍しい想いだった。

 女性には、手当たり次第、言い寄ったようでもある。
 寂しがり屋特有の饒舌さとも理解したが、母に捨てられたことと、関係があるのか、どうか。
 それにしても、井上夫妻と瀬戸内氏だけではない多角関係は、とりつかれたかのようだ。

 そうそう、女性たちが、初恋の人を語るかのように、井上氏についての想いを話すシーンが幾度か出てくる。
 おぞましいというか、「この幸せ者め」というか、たいしたものというか、頭がグラグラしていた。
 要は、「お盛んだったんだな」と。

 いずれにせよ、時代は変わり、文学者がまだ、幻想の対象だったときの挽歌として、映画を目撃することができたのだったが。
 そう痛感していた。

 言葉が愛に基づくものなら、井上氏は、まさに愛の人だったのだろう。
 たとえ嘘まみれであったとしても。

 どうか、今日も、ご無事で。

 埴谷雄高氏には、振戦があったのだろうか。
 松岡正剛氏が指摘していた記憶もあるが、まるで円生師匠、存外、とぼけた饒舌派だったなと^^。
 あっはぷふい。


【追記/「白黒なんて…」】
「そうだよな」と。
 身心が落ち着いてくる文章だ。
 感じて、考えて、想っていたことが記されていたのだった。

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 今日は生憎の雨模様だ。
 自宅で映画でもと。
 佳き日々を。