共感することは大切だ。
が、暴走するときがあることを、忘れないようにしたい。
事実、排他性へと結びつく事例は、あまたある。
共感を共感のまま、共生ではなく、共存できないものか。
共生を強いられる、今。
【とんでもないことだが/今日も少しだけ】
懐にピストルを忍ばせ、非合法活動をしていた人。
そうした人物がかつていた。
今もいるし、今後も出てくるのだろう。
転向後、どうなったか。
企業のトップにのぼりつめた。
そうした人は、存外多いのではないか。
弁はたつ。
オルグは達者。
しかも、マスコミ関係なら、鉛筆1本で這い上がっていくこともできる。
志ではできなかったこと。
それが、転向でできるようになり、面白かったのかも知れない。
ただ、折り合いをどうつけたのか。
狭量で凡庸なわたしには、言葉では分かっても、ついに分からないというか、分かりたくなかったのかなと。
彼らがみな、資源が乏しく、貧しい日本に唖然としたのは、理解できる。
結果、どうしたのか。
原発に希望を見出したのである。
皮肉と言えば、これ以上の皮肉もないのかと。
足もとは水浸し。
踏ん張りようがない時勢だ。
が、「何とかやっていくか」と。
どうか、今日も、ご無事で。
【追記/「踊るしかない?」】
力いっぱいの悲しさ。
一縷の望みみたいな。
「でもなあ、ステップを踏めるだけでも、今はいいことだよ。
たとえ束の間とはいえ」
そう体感した唄を、上に貼り付けた。
この映画のワンシーンである。
www.youtube.com 悲しくて、希望もないからこその踊り。
その真っ直ぐな希望。
佳き日々を。