深呼吸する言葉・ワナタベジンジンタロウ

おっさん中退・ジジイ見習い

「おい、元気か」/友へ・15

腰をかける。
ゆっくりとした気分になろうと目を閉じる。
すると、友だちの顔が浮かぶ、それも死んだ奴らばかりなのだった。
長髪のままの奴をはじめとし、みな、笑顔である。
「困ったな」というのも、涙がさ。

▲『畑』(写真)
練馬の畑をただ、視に行くときがある。
安心したいから?
ううん、どうだか。
ただ、視たいのだった。

www.youtube.com辻潤を想う/今日も少しだけ】
辻潤の文章を紹介したい。
 大杉栄伊藤野枝という稀代のカップルを描いたドラマ『風よあらしよ』が、NHK・BSで3回にわたり放映されたからだ。

www.nhk.jp

■若いころ、辻のアフォリズムに、「あっ」と感嘆したことがある。
 それ故、何だか肩を持ちたくなったのだった。
 あの番組で、辻は、野枝に逃げられた自分勝手な男尊女卑の男であり、社会問題などには距離を置く人物として描かれていた。
 要は、喰えない奴。
 が、本当なのだろうかと。

■先を急ぐ。
 辻には、『ふもれすく』という一文がある。
 依頼で書かれた野枝への追悼文と言えるだろうか。
 依頼した編集者も凄いが、今にも通じる文体で描いた辻にも感嘆する。

■辻は、大阪・道頓堀で手にした号外で、野枝の死を知ったという。
 野枝との間にできた息子・まこと君のことを想起し、途方に暮れたと率直に記している。
 辻は記す。
〈野枝さんや大杉君の死について僕はなんにもいいたくない──〉
 それはそうだろう。
 虐殺されたのだから。
 それでも、『ふもれすく』は書かれたのだった。
 以下、今日再読し、気になったところを、青空文庫から転載したい。

■2人のことについては、こう記していた。
〈染井の森で僕は野枝さんと生まれて初めての恋愛生活をやったのだ。遺憾なきまでに徹底させた。昼夜の別なく情炎の中に浸った。初めて自分は生きた。あの時僕が情死していたら、いかに幸福であり得たことか! それを考えると僕はただ野枝さんに感謝するのみだ。そんなことを永久に続けようなどという考えがそもそものまちがいなのだ。〉

■そうして、こうなる。
〈野枝さんのような天才が僕のような男と同棲して、その天分を充分に延ばすことの出来ないのははなはだケシカランというような世論がいつの間にか僕らの周囲に出来あがっていた。
 その頃みんな人は成長したがっていた。「あの人はかなり成長した」とか、「私は成長するために沈潜する」とか妙な言葉が流行していた。
 野枝さんはメキメキと成長してきた。〉
 ついに、こうだ。
〈僕とわかれるべき雰囲気が充分形造られていたのだ。そこへ大杉君が現われてきた。一代の風雲児が現われてきた。とてもたまったものではない。〉

金子光晴の語りを聴いたとき、落語家の名人以上と感じた。
 辻も同様だったようだ。
 その彼が、こう書いている。
〈僕角帯をしめ、野枝さん丸髷に赤き手柄をかけ、黒襟の衣物を着し、三味線をひき、怪し気なる唄をうたったが、一躍して婦人解放運動者となり、アナーキストとなって一代の風雲児と稀有なる天災の最中、悲劇的の最後を遂げたるはまことに悲惨である。惜しむべきである。更に恐ろしいことである。お話にならぬ出来事である。開いた口が塞がらぬ程に馬鹿気たことである。〉

■グッときたのは、次の部分だ。
〈強情で、ナキ虫で、クヤシがりで、ヤキモチ屋で、ダラシがなく、経済観念が欠乏して、野性的であった――野枝さん。
 しかし僕は野枝さんが好きだった。野枝さんの生んだまこと君はさらに野枝さんよりも好きである。野枝さんにどんな欠点があろうと、彼女の本質を僕は愛していた。先輩馬場孤蝶氏は大杉君を「よき人なりし」といっているが、僕も彼女を「よき人なりし」野枝さんといいたい。僕には野枝さんの悪口をいう資格はない。〉

■辻は、ニーチェの超人をもじり、低人と喝破した。
 ついには、天狗になったりして、はた迷惑な存在でもあったのだろう。
 が、「牛よ、馬よ、鳥よ、もうしばらく待ってくれ」といったようなことを記した男でもあった。
 還暦を迎えた昭和19(1944)年、餓死で亡くなっている。

■年譜を見ると、こうある。
〈昭和16(1941)年12月8日、「真珠湾奇襲」の大勝利万歳! を聞きながら暗然として「日本必敗」を予言、「降参党バンザイ!」と叫ぶ。〉
 合掌

■どうか、今日も、ご無事で。

 

【追記/「さてっと」】
「終わらないなあ…」
 持ち帰った賃労働がである。
「何とかするべえ」

 佳き今日を。