2012-02-01から1ヶ月間の記事一覧
「巧みな言葉遣いだな」と感心する。 しかし、わたしには結局、遠い。 安楽椅子に座して、皮肉の1つも言おうとすれば、技巧は駆使できるもの。 今も血肉となる言葉は、渦中にありながらの、闘う走り書きなのだ。
流されてきた位牌も、波打ち際で洗われた。 食欲は失せても、温かくしていよう。 身心を温めてくれるスープが、今日も必要なのだ。 春が来ても、寒いままの状況は続くのか。 3月11日へと進む朝がまた、始まる。
「おじさんの一生?」 近所の子に問われ、困惑した。 「まだ生きているのに、何故聴くのさ?」 「だって、長生きしているし」 「よく働いたが、貧乏、笑いは手放さなかったで、どだっ」と自棄糞で笑い飛ばした。
恋する女から漂う密林の気配。 おれは薄い空気の中、倒れそうだった。 とっ捕まれば分かるはずだ、捕まるような運動性は拡がらないと。 女の発生に惹かれた男にとって、路上で布団を敷くことは望むところだった。
人が人の形を奪われ、胴体は喰いちぎられた。 わたしも顔色を失ったままだ。 街角では、子どもらが手を叩き笑う。 いつも歩き出すしかない。 暮らしは困難だが、断定から遠く逃げ、受容しては歩き続けてゆく。
お金で買える愛もあれば、買えない愛もある。 同様に愛である愛もあれば、愛ではない愛も。 では、愛とは何? 定義できる愛もあれば、定義できない愛もある。 曇天の下、鳥たちはいつもの如く、ふいに飛び立つ。
わたしたちも、何処で暮らせばいいのでしょう? 中には外国へ引っ越した方も。 安全な場所はある? 首都圏3千万人超の避難場所、いや、居場所を、ぜひご教示ください。 (東京都チェルノブイリ市在住・会社員)
我、他者と関係する、故に我在り。 太極拳やヨーガを時折行うが、相変わらず他者としての自分の身心は硬い。 だからか、死をも生きようとするメソッドを続けるのは。 死という身心の固形化まで呼吸を深めてゆく。
曇天の下、どれほど歩いてきたか。 まだ楽しめない、楽しむつもりもないけれど。 ただ、嬉しいときがある。 どうしたわけか、ステップさえ踏む。 例えば冬に咲く花の、息を呑む率直な美貌ぶりとすれ違ったとき。
生き延びようとする者が成し得ないことを、お前はやり遂げた。 完全な死体になれたのだ、無事、生き返りもせず。 ひと安心だな。 煩わしいたらありゃしないことは続くが、おれの死に際は見守れ、雲海から。 合掌
相変わらず否定の言説、しかも命令口調なんだね。 まるでヒステリックな小心者のようだよ。 ほら、男の中の男、強いんだろう? 今日は解放の言葉を語るんだ。 自由を存分に味わったときのことを話し始めようか。
子どもらが近隣の地図を描いた。 「違う世界で生きているんだな」 わたしも倣い紙を広げる。 犬の道や抜け道でなく、図書館や飲み屋を記せば了であったが。 紙の上でも道草を食うことができ、すっかり浮かれ者。
夜道が物騒だからといって棒なんか持つことはない。 ほら、ぐるりを、月の光が微かだけれど、明るくしてくれているよ。 逃げ道はいつか見えるさ。 怖いものがいるとしたら、棒を手にした途端、現れるものなんだ。
春の息吹を強引に感じようとする寒い朝。 「言葉があるから世界に対峙できる」とも体感していた。 ただ、悪しき教条的な定義主義に身心は奪われまい。 言葉に欲情はするが、順を追って発情するわけではないのだ。
路上で啜り上げる女性。 涙を流していることが窺えた。 ただ、彼女の哀しみの原因同様、何故、切ないと涙が出て泣くのか、「見当がつかないな」と。 雨は降り続け、急ブレーキの音が冷徹に鮮明な夜のことだった。
厄介な塵芥が舞い、「どうしていこうか」と。 「降り積もる時間こそ共有していきたいな」 体験できる言葉を希求しているのだ、眼前の意味が変容化してゆく。 お茶を飲み終えたら長居は無用、席を立つ日々に――。
収容所で暮らしている気分と言えば、あるいは怒られるだろうか。 希望はついに焦げついてしまっているが、一般化の罠には留意している。 吐き気がしても、事実は見据える。 前ではない、真正面へ向かおうと思う。
プールの脱衣場、着替えがうまくいかず、寒くて泣き出す男の子。 父親は怒るばかりで、着替えの途中、外へ連れ出してしまう。 泣き止む気配が漂い、観れば母親の腕の中。 父親はやはり困惑、ただただ惚けている。
蓄えはない。 今、ぶっつけ本番の百文字を記そうとしているのに似て。 余裕もない。 残酷な童話、いや、童話の残酷さに似て。 あるのは、そう、あるのは強欲な突風の中で座り続ける、弱さに基づく屈託の強さだ。
クリスマスの後に初詣、今、雛祭も待つ。 ただ、神仏への信仰心はなく、いい加減なものだが、悪びれることはない。 そのくせ毎朝、手のひらを合わせることは欠かせなくなった。 昨春からは、なおのこと。 合掌
仏壇の水を替えていた。 「生きている今を、不老不死の状態と思い込めれば、死も楽しみになるだろうか」 益体もない言葉が飛来する。 マッチを擦り、火をともす。 線香の煙が鼻をくすぐり、くしゃみの気配――。
脚を高く上げて、素早く跨ぐ。 熱いエンジンが震え、「出発だ」と伝えてくる。 目的地はない、それでいい、それがいい。 走ることを走るだけだ。 消えたものは戻りゃしないが、流儀を通すやり方で行くしかない。
夕暮れ時の雑踏で、人前に出た後、のんびりと歩く人々。 太陽の残滓が貧しい。 身体を運ぶ精神、精神という身体、身体という精神、精神を運ぶ身体。 今日は返すものがあるのだ、追い抜こうとせず足取りを速める。
強制的に身代金をふんだくる。 しかも、立ち行かないから、「もっと寄越せ」とは。 わたしのせこく軽薄な放蕩は、知れたもの。 愛する人に思いを込めたプレゼントをするかの如く、有頂天の納税はできないものか。
根源的な発言なる行為も、食生活が概ね成立できているから可能なのだ。 その一方で、喰えないからこそ言葉にしてゆく姿勢。 あるいは、保障・保証されていない場所での言説。 わたしが惹かれる場所は長く明白だ。
感謝の言葉は美しい。 使い方で、人生も変化していくだろう。 こうしたことを言うほどには、人並みの辛酸に貫かれてきた? 実際、セクシーな立ち居振る舞いよりもありがたいこと・ものが、今も増えていくばかりだ。
大震災の前と後にも暮らしへの震災。 その集積に耐えられなくて当たり前だ。 母なる胸・父なる腕、そうして子どもなる身体を大人たちにも! 内・外部被曝を生活習慣病で括ってはならない。 一件落着はごめんだ。
こんなふうに言ってみようか。 1人だから力があるのではない、力があるから1人なのだ。 こうも言おうか。 力があるから1人なのではない、1人だから力があるのだ。 勝手に寂しいが、群れるつもりは今もない。
日々、目次を記しているかのよう。 表紙には文字が浮かび上がっているが、今日も判読できない。 索引は成立せず、栞は手元にないままだ。 ページ数の予測はつくが、未決定。 奥付にはせめて、日付がないといい。