2016-12-01から1ヶ月間の記事一覧
腹を空かしたとき。 コロッケを喰って悦んでいたじゃないか。 想い出す、ガキのころのことを。 堂々としていて寂しくもある赤い空。 3丁目の夕陽は求めていないが、夕焼けの中、腹を満たした情景には還りたい。
どんなに早く辿り着いても、結局、式は始まる、始まってしまう。 つまり、終わるということだ。 葬儀の席、悲しさが増していった。 別れはすでにしたが、葬儀であらためてやって来る別れ。 悲しさが募るわけだ。
最近たまに訊かれることがある。 「まだ現役なんですか?」と。 老いた外見なのだろう。 働く者、食うべからず? 違うちがう、哀れと思われようが、何と言われようが、働かなければ、あはは、食えない、これだ。
若いとき、お金がなかった。 が、老い始めの現在とは違う。 今や骨身に染み過ぎて、寒さは増すばかりか。 下手をすれば、生存の危機? いや、なに、路上生活をしているわけではないものの、笑うしかない事態だ。
美男ではないし、スタイルがいいわけでもない。 頭脳明晰でもなければ、財力があるのでもないのだ。 にもかかわらず、人気の彼。 「手の動きにしびれる」との声が。 何より手そのものが素晴らしいというのだった。
自分の書いた言葉を忘れてしまった。 どうしたものか。 その一方で忘れていたはずなのに想い出す流行り唄も。 身体に定着しているかどうかなのだ。 やはり聴くこと、しっかりと聴くことこそ唄の基本なのである。
ときに情報断食を。 そうでないと身がもたない? 威勢がよかったり、裏事情に長けていたり、慰撫してくれたりする情報に騙されがちだ。 均衡をとろうとした瞬間、やられる。 何より騙されたいとき騙されるのだ。
相互監視ならぬ、相互詐欺社会の蔓延。 一昨日の夕食は忘れても火星人来襲は信じてしまう? 脳髄の腹筋を鍛える。 そのために、ぴょんぴょんと移動できればいいのだが。 情報を鵜呑みにすれば命取りのご時勢だ。
冬の晴れた日の公園。 男の高齢者が満面の笑みを浮かべ、ベンチに座っていた。 顔を空に向けて、陽射しで顔を洗う仕草を。 至福の表情を浮かべていた。 傍らには、臭う寝袋と毛布、そうして1人用のテントが。
陥没してしまうことが続く。 殺人が続いているのだ。 ビジネスなら、交渉が決裂しても、再交渉に挑むことができる可能性も。 が、人がいなくなれば、どうしようもない。 1%の連中は世界大戦を望んではいない?
納得いかなくとも、まず謝る。 相手の怒りを鎮めるのが先決だ。 想いは、「いずれ決着をつける」。 いつか分かるだろう、怒りが不必要だったと。 帰着しなければならないことはあるのだ、たとえ無理だとしても。
軍門に降った自覚はなく、今でも勝とうとしている? 現状は、どうか。 軒先を貸して母屋を取られた? いや、母屋を取られてしまい、軒先で暮らしているのだ。 せめてと空を眺めれば、そこもまた収奪されて――。
岡林信康の『友よ』を唐突に聴いた。 その1か月後、『ジュピター』も。 どちらも葬儀の席で流れたのだ。 活気・精気、何より元気をもたらした唄に涙する日が来たのである。 いずれ逝った奴らと聴く、聴きたい。
生ではなく、死こそ常態――。 ほんの少しだけ先へ行き、待っている連中を想起。 特に約束したわけではない。 ふと、川にかかる橋を、いとも簡単に渡っていいのかと。 できるなら、ゆっくり渡っていこうと――。
いくつになっても、愉しいことはある。 身心が思うように使えるのなら。 例えば、水に飛び込むこと。 あれはいい、実にいい、とてもいい。 何が、どうして悦びとなるのかは、今もよくは分からないのではあるが。
財布の中の小銭を数える。 あっという間だったが、「よし」と呟く。 たまには、町へ出かけてみよう。 町の中へ入ってゆくときの快を知っている。 そうして、ついに町の人となってしまったときの身心の愉しさも。
大切なことを伝えていきたい。 教えることはできないだろうが。 泣く、叫ぶ、怒る――。 疎ましいかも知れないが、伝わっていくことはあるだろう。 青空には悦びがあるものの、実は恐怖も内蔵されているのだと。
無理をしてまで協調することはない。 ただただ必要とされる人を想うばかり。 立場をわきまえることは、何と困難か。 せめて耳を預け、話は最後まで聴く――。 そうして、ていねいな発語をしていくしかないのだ。
他国からの脅威が問題という。 が、日本こそ脅威と想われているとは考えないのか。 被爆国なのに核を認め、原発を爆発させたのが隣国だとしたら、どうか。 右も左も関係なく、大声が上がる。 怖さは募るばかり。
事故後の対応が素晴らしいとの報道。 が、事故が起きないこと、それも人災としての事故が発生しない文脈の定着こそをと。 路上には穴、原発は壊れていく。 今日もまた、人が亡くなる。 明日もまた、明後日もだ。
冬の公園――。 この言葉だけで思い浮かぶ、いくつかのシーンがある。 例えば、陽射しを求めて徐々に集まってくる高齢者たちの姿。 独り、またひとりとベンチを目指して来るのだった。 今日その姿を視に行こう。
上に立つ人の能力が足りない、いや、ないという。 人心掌握や何より労働そのものが不出来とも。 年下のおぼっちゃんらしい。 「仕方ねえな」と呟く彼。 「この国の話をしているんじゃあないさ」と苦笑いしつつ。
スーパームーンが出た夜のこと、「次は視られるか」と。 18年後という。 だからだろう、無駄に一生懸命に視ていたのは。 が、毎日がかけがえがないのである。 太陽は視られないが、今宵は今宵の月を愛でたい。
人間の皮を被った悪霊たち。 そう言いたくなる1%の蠢きが。 油断がならないのだが、どうしようもないときが多い。 一方、タチが悪いのは、人間の皮を被り損ねた輩か。 99%からの離脱のみで、事態を深刻に。
資料を、自分の思惑で改ざんする。 重要なことはあくまでも隠し、おまけに安易に捏造も。 成功を勝ち得るために。 が、仮に成就したとして、それは一体何なのか? 功を成すと言い切れることなのか、どうか――。
簡単に騙されて来た。 「ちょろいな」 そう想われたこともあっただろう、いや、ある。 が、儲け話で騙されたというのではない。 あるはずがないと想ってきたからだが、要は愛や正義の類でちょろい奴だったのだ。
喧嘩すれば違いが分かるという。 が、分かってから、何をどうするかだ。 言葉であっても殴り倒した相手に、受け入れる器量はあるのか? そも、佳きことが誕生するのか? 喧嘩程度で済むのかどうかも気がかりだ。
盲人が盲人の手を引いていく――。 決して、この国の比喩ではない。 駅前で出逢った現実である。 夫婦が、互いの手を取り合って、杖をつき歩いていたのだった。 愉しそうに大声で山登りの予定を話していたのだ。
定年退職した人たちと呑む。 すこぶる元の気、元気そのものだった。 そりゃあそうだろう、まずのところ雨露をしのいでいるものな。 致命的な病気がある? あはは、その元気、まったくのところ、いかす病気だぜ。
今もときおり、ふいに想い出されるシーンがある。 行為の細部、さらには細部の行為を丁寧に描いた映画。 心のうちこそ、垣間視えたものだ。 劇場の外には汚泥。 だからこそ、ときを跨いで想い出されてくるのだ。