2018-04-01から1ヶ月間の記事一覧
テーマに即して話し合っている途中、違和感が。 開かれていない点もあったが、「違うなあ」と。 「そうか」 人は概ね、テーマに沿っては話さないと、身心で気づいていたのだ。 性急に結論を出すことはないなと。
うつうつとせざるを得ないご時勢だ。 「数え上げればきりがないほど惨いことばかり」という比喩が適切だ。 こんなときだ、自由に発言、闊達な行動の人がいて欲しいなと。 わたし? 肩で息をしつつ、それでもと。
彼は言う、「悪口を言われているほうが、気は楽さ」。 軽く驚き、「どうしてさ」と。 すると、「少なくとも無視はされていない」。 「強がりは必要ないのに」と問うように聴いた。 互いに言葉少なく杯を空けた。
近所の古本屋さんがウェブ上で、「平和と平凡はよく似ている」と記していた。 「確かにそうだよな」と。 平均はこの際、置いておきたいが、平安は加えたい。 平穏な中、平気でいきたいもの。 今日から少しでも。
ストレッチをしていたときのことだ。 トイレへ行きたくなった。 が、止めるのも面倒な気分といったあたりか。 そこで続けた。 トイレが何処にあるのか、知っているだけで生まれた切羽詰まった余裕のようなもの。
写真は、未来を撮ることができない。 過去も、また。 今の被写体を写すばかり。 本当のところ、それも怪しいのだった。 写真はたえず古いが、実は過去も未来も、そうして今でさえ、視えてくるのではあるけれど。エリン・ブロコビッチ コレクターズ・エディシ…
陰気より陽気がいい。 遠慮はいらない、悲惨な状況を前に陽気でいいんだ。 陰気がメーンとなれば、誰もが主人公になりたいとは想わなくなるだろう。 一方、陽気は隅々まで暖かくする。 誰もが主人公になるのだ。
重厚長大・軽薄短小という言葉の指し示すもの。 何かを言ったことになるのか。 いずれにせよ相対的なものでしかない。 いつ殺されてもおかしくはないときに覚悟はできない。 重厚長大・軽薄短小では表せないな。
負荷のかかる場所を歩いていく。 すると、自らの呼吸に気づくこともある。 結果、深い呼吸に結びつく場合も生じるのだった。 何はともあれ、落ち着いていく由縁でもあるのだろう。 からだは疲れていてもである。
彼は一瞬黙った。 想わず身を乗り出していた。 話し方は穏やかで魅力的であるが、声の質もまた落ち着いていて惹かれるばかり。 その彼が、黙ったのである。 当然のことながらか、沈黙が腹に響いてくるのだった。
通勤電車で運よく座席に座れた。 すると甲高い声がしてくる。 話し声は止まらない。 仕方なく、できるだけ本に集中しようとする。 新宿に着いたときだ、父と初出勤する娘さんだと分かり、何やら後悔をしたのは。
ときどき読んだり聴いたりする。 若気の過ちを通過していない人は信用できないといったようなことを。 言いたいことは分かるつもりだ。 が、違和感も。 だって、若気の過ちで一生を棒に振った人もいるのだもの。
熱情や熱意、熱狂は理解できる。 が、単に滞った交通渋滞ではないのかと。 そうでなければ、人はもっともっと、集まるはずだ。 そう体感して、場所を離れた。 旧知の友との一献にこそ、明日への可能性が微かに。
誠意を込めて話す姿勢。 耳を傾けては幾度か頷いた。 が、話し手が想わず黙ってしまうことに基本がある場合も。 言葉と沈黙が行き来することにこそ全身で向かえと、自らに。 話し手の中の複数の人と出逢うのだ。
小道を歩いていた。 徐々に、そうしてふいに親しみやすい至福にとらわれて。 心持ちは旅とでも言えばいいのか。 泣き叫んでもダメなときはダメ。 それでもいいさと思える場所へ、少しでも向かおうと想えたのだ。
友人と酒を。 唄が流れており、「生涯のベスト10は?」との話題に。 真っ先に、『ブロンド・オン・ブロンド』を挙げた。 が、酔うほどに、あれもこれもと。 結局、今のものである、生涯にわたる10枚なのだった。
どうしたものか、肝心のことを言わないから、馬鹿にされているのに。 いつまでも本態は伝わらない? 救えるものさえ、救えないままだ。 失意が臭気のように立ち込めている。 窓を、まずは、自らの窓を開けよう。
今日、記したいこと。 歩いているだけで愉しい、愉しくなってくる道があるといった点だ。 概ね、一本道ではない。 それでも、グルリに草木が息づいていれば、弾むものだ。 身心の森を呼び覚ましてくれるからか。
ゴミとは何? 必要のないもの、害をおよぼすもの、あるいは消えて欲しいもの。 ただ、1度は身近にあり、大切なものだったとしたら…。 ゴミは、いつから、どうしてゴミになるのだろう? 一般論では言えないが。
伝わって来た言葉に倣えば、「迷信を尊び、信用せず」か。 ふと、「縁があってよかった」と。 そも、縁は迷信ではない。 今の根拠と体感するときがあるのだ。 縁の側に立つ縁側主義者と言えば、悪い癖が出たか。
疲れていたが、住まいの鍵を忘れていた。 家族の帰宅まで中には入れない。 「ええいままよ」と、草の生えた公園へ出向いた。 そうして、シートも敷かず、地べたにゴロリと横になったのである。 「しめしめ」と。
縁側に腰を掛けている。 海から上がって、シャワーを浴びた状態で。 麦茶を飲み干す。 そうして、「握り飯を食べ、もうひと泳ぎ」と。 脳髄が盛んに身心に呼びかけているのだ、「まだまだ行こうぜ、行けるぜ」。
目の前の人をまず感じる、想う。 そうして親身になっていく。 決して居丈高にはならない。 そうした在り様が波及していくこと。 それだけで、そう、それだけで呼吸が楽になり、息を詰めなくてもよくなるのだが。
「とどのつまりさ」と彼。 「信じられるか、どうかなんだよ」と言うのだった。 「宗教に持っていかれるよりいいさ」 身近な人たちを信じられるだけで幸運というものと、杯を運ぶ。 窓の外、満月が浮かんでいた。
現実への違和感。 いつのことだろう、体感してしまったのだ。 爾来、違和感に訊ね、折り合いをつけようとしてきた。 が、納得はできないままだろうと想い定めている。 いいとは想わないが、そうしたものなのだ。
「被写体を望遠で撮る卑劣さ」との発言。 とはいえ、ときに望遠を使ってもいいのではないか。 悪い流行り風邪に感染しないためにも。 そも、遠くから視ていることが大切なときもあるのだ。 自分のことでさえも。
方向音痴ではない。 しかし、齢を重ねて、敏捷性などが消えていく。 想ったようには、素早く動けないのだった。 音痴な方向まっしぐらというわけか。 ええい、ままよ、少しでも好き勝手に歩いていくしかないかと。
あの国を制裁? それで、この領土では、昔、何を始めたのか。 「大空襲を恐れるな」と鼓舞され、死屍累々。 何も学んでいない。 桜を土手に植えたのは、人々が来訪し土手が硬く踏みしめられるからというのだが。
電車で新聞を読む人はいない? 確かに。 ただ、スマホで情報の獲得量は増えているという。 電子メールで、人とのやり取りは、手紙の時代よりもはるかに多くなった実感がある。 ここまで来れば、量が質の側面も。
出ない杭さえ打たれてしまう、ためのない世の中だ。 例えば地下に逃げたり、潜ってごらんよ、よく分かるからさ。 ときに土ごと持って行かれるもの。 逃げ場所なんかとうにないんだよな。 呆れるばかりの丸裸さ。