2012-01-01から1ヶ月間の記事一覧
続く殺傷事件。 手をとらねば胸の内が見えぬときもある。 他殺という自殺、自殺という他殺の泥にまみれる状況か。 親が子の、子が親の、人が人の手をとり歩く姿。 この世でも指折りの美しい光景ではなかったか。
陽が昇り出す。 熱い紅茶を含み、「何故思い出すのだろう」と。 そも、思い出とは何? 遠くを内在しない前とは何処のこと? 陽射しを浴び命令口調に命令しようか、「自分にでさえ命令はするものじゃあないよ」。
国土の7割とも言われる森林率。 汚染物質が侵入、癒しの空間でなくなったのはどの程度? もちろん癒しは求めていない。 ただ、亡き両親や友人知己との再会を夢想してはもう歩けない、深呼吸できないのだ。 合掌
世界は凍えたままさ、あの子は大丈夫かな。 コウモリも悪く言えない、あの超音波コミュニケーションを思えば。 笑いの同時性に、ついもらい泣き。 砂埃が目を潰すが、泣き顔の湿度が笑みを誘うときもあるものさ。
新刊本は購入した途端、市場では古本に。 読み終えたわたしは、新刊本としての感想をもらすのだが。 できることしかしようとしない傲慢は嫌だなと気づく。 今日も読み継がれる物語、永久の新刊本を希求しながら。
積雪が憂うつだった。 汚染物質が検出されたそうだ。 今も育てようとして育てられることなど、筋からは遠い。 互いに育み合う共生感覚こそを。 子どもたちの光り輝き跳ねる眼差しに詫び、雪を苦く睨んでいた。
白土三平翁の劇画で思い出した場面がある。 忍者が活躍することなく、死んでしまう状況を描いた部分だ。 男はやられてしまい、何と「勉強不足だった」と呟き、倒れるのだった。 昔、笑ったが、今やとても笑えぬ。
わたしは1個の病気だ。 子ども当時、「映画にもう連れて行きたくない」と母親に笑われた。 感動の場面で観客が泣き出すと、突然笑い出したのだ。 注意されても笑い続けた。 今でも爆笑病で発熱するときがある。
昨日は過去の初日、明日は未来の初日。 今日に立ち、両方へ時間をのばしていけば無限、時間は消える。 空間もまた同様の作法で消失を。 ただあるのは今・ここの永遠、その感覚。 法悦なる言葉で縁取られてゆく。
幸福病に恋愛教、しかも拝金屋。 いいじゃないの、幸せでなくて。 恋だの愛だの、時にうるさく、金は欲しいが、それだけじゃあね。 単に生きるのもいいものさ、捨て難い。 軟らかく熱い大根をフ〜フ〜喰らう。
ヤクザに売り飛ばされた先から逃げて来たという。 おれは微かに怯え、居場所を提供した。 『怜子』を繰り返し聴く姿に度肝を抜かれる。 後日、所帯を持ったと風の便り。 怨み節が笑いを誘うこともあるのだった。
昭和の会社員が生きる出張先で思う。 「おれならここでどう暮らしていくのか」 ドアを開け荷物を拡げ、一息入れドアを閉め、うろつくはずだ。 いつしか座り、とどのつまり居心地のよい場所を探し続けるのだろう。
目的もなくて、何をすごんでいるの? 思い出すとは何なのか、まず考えてみる。 何人もの母親を持つことができたのは、母を亡くしてからかもしれない。 借用したお手軽なトラウマではなく、未来を根拠としていく。
八方塞がりの状況下、汗をかいて、事をなした気に。 見えない結果に自惚れは禁物だ。 むしろ疲労を抱え食卓につき少しでも笑顔を浮かべられたら、それこそが成果。 わたしは毎晩、かつての田舎町へと帰ってゆく。
冬の陽射しが真情を明らかにする。 善や美、徳も必要だが、今は務めに邁進したいと。 時代や教訓、事情の裏読みも大切だが、ただ立とうとする姿に打たれる。 子らと走り始める、倒れぬように目端だけはきかせて。
「人生は1回。悩むことはない」との言説に馴染めない。 「他人の役に立つことが生きがい」という物言いにも。 人生だから悩み、善意の合わせ鏡を覗けば気が遠くなるばかり。 今朝もまた、お天道様を仰いでいる。
本当や本質、本物や本来という言葉と接すると思う。 「本来、本物の本質は関係でも変化していく、本当は」 本物の本質に本当は信を置き切れないでいる。 「本来の場所へ帰ろうよ」と、時に本気の顔で体感しつつ。
笑顔を眺めるのは好きだけれど、嫌なときも? 特におかしくはないさ。 毎日が晴天とは限らない。 むしろ、期待したときに限って曇天の日の、心持ちの運び方のほうが大切なときも。 まずは煮物でもつつき、一献。
自分がしてきたことを、他者に、「するな」とは言わない、言えない。 「食べるな」と、どうして断定できよう。 生涯このまま、盗む輩は唾棄し、何より人を殺傷せずに済ませたい。 冬空の高さを感じていたいのだ。
定期的にリュックザックを押入から出す。 中身が使えるかどうか、確認するために。 十徳ナイフと言うのだろうか、刃物を時に磨くこともある。 3日間だけ過ごせる水や食品、荷物が、どうか無駄になりますように。
腹蔵なく話し合える相手がいる至福――。 屈託を捨てようとすることはないが、日向性をぶちあげる時間は貴重だ。 根拠を求めることもない、つながっていくのなら。 友人たちが集まるのに、理由はいらないものだ。
この国では、生存に不可欠な領域が瀕死の状態だ。 農業にエネルギー、医療に教育、介護など――。 今も効率優先ではない、理想が息づく暮らしが求められている。 世界中が真似をしたいと思う国に、武器は不要だ。
「所詮、自分勝手で他人はどうでもいいのが人の本性」 何だか凄い言い方だね。 だって、今から作ることができる本性だってあるのだもの。 そもそも、生命が響き合わなければ、もたない場所まで来てしまったんだ。
仕事の途上、邸宅と出くわす。 目に飛び込む大きなガラス窓からの風景。 人々は押し黙って、1点を見つめている。 笑うでもなく、寄席の番組が放映されていた。 わたしはと言えば、再び冬空を歩こうとしている。
三島由紀夫が亡くなった当時、「同じ死ぬなら悪党を刺せ」とも感じた。 その思いは消え、雨露をしのげればと暮らしている。 落書きも長くしていない。 あなたに美味しいお茶を入れたいと、腕を磨いてはきたんだ。
断食とは別に、単に空腹だと寒いもの。 寂しいし、ためらいも生まれる。 気に入った音楽を聴いていても虚ろだ。 「巧いなあ」と感じるものの、素晴らしいとは思えぬ芸を、ふと想起。 まずは、熱い味噌汁を啜る。
久しぶりに手にした筆。 「筆順が違う」の指摘にめげず、書いた文字は、「人生万歳」。 歳という文字も間違え、「人生万のグチャグチャだね」と叱咤も。 「万歳の根源じゃあないか」と居直って、笑うしかない…。
敗戦が悔しいのではない。 戦争が過去から現在まであり、今後も続くことが悔しいのだ。 何度でも記す、今も戦前・戦後であり、戦火は見えにくいが、戦中なのだと。 戦争を望む無意識も、戯言同様、埋葬していく。
再会してしまう、何処へも行きたくない己が呼吸していると。 祭や大会、会合は大好きだ、密談もまた。 ただ、子どもらと一緒だから、胸も開かれるのだ。 「これ以上の僥倖があるものか」と決めつけて、座り込む。
人間――。 ただ、先程まで眼前にいたのは笑う子どもであり、汗を流す若者であり、杖をつく高齢者であり、走る男であり、歩く女という具体性だ。 疎ましくも愛しい人間なる抽象性。 幕は閉じない、閉じさせない。