2016-04-01から1ヶ月間の記事一覧
新聞を開く。 今日も報じられている不運に不幸、不遇。 人の世では日々刻々と悲しみや怒りが発生している。 耐性はできたが、読みたくない記事は増える一方。 とりわけ国の犯罪記事から逃げていきたいのだった。
呑む、つい調子に乗り。 想い出梗塞を患い、スイスイスーダラッタと来て、スラスラスイスイスイと。 翌朝の猛省メタボに忘却ロコモ。 なあに、単に吐き気が続く二日酔い。 水をガブガブやれば、命の水と体感さ。
病気とお金、そうして老い。 せめて真ん中の問題ぐらい何とかならないか。 祈ったってダメだ。 しかも、黙々と働いたって、どうなるものでもないさ。 今さら、人非人になる度量もなければ、戦争を望みもしない。
脳内で決壊する事態があり、脳外でも瓦解する現実ばかりが発生中だ。 「今日はいい天気だな」 そう呟き、後は黙る、黙っていられる。 しかも、静かな微笑みとともに。 そうした日々はついに、来ないのだろうか。
ダチとゆっくり語り合う。 ときに下らなくて、情けない冗談も交え。 すると、無意識を意識化でき、考える契機にもなるのだった。 記すこともまた、自分・自分という他者との対話。 想わぬ空間が現出する時間だ。
腸は免疫にも影響を与え、健康には悪玉菌より善玉菌をという。 が、最近では日和見菌も忘れてはならないと。 「象徴的だよな」 清濁併せ呑む? いや、むしろ、濁濁併せ呑み干し、笑い出せる方途はないものかと。
病院は、この世からオサラバする場所ではない。 が、致し方ない場合も。 荷物は少ないほうが、逃げ道確保には好都合だ。 が、年を取り、身体自体がお荷物に。 そうさな、極楽は求めない、今ここの安寧こそをと。
過去に生きていた大切で、愛しい1千人。 それよりもむしろ、今、眼前の1人の声だ。 耳を、ゆっくりと傾けていく。 すると、気づくのだ。 たった1人の言葉の中に、1千人の声が息づき、渦巻いていることにも。
好きな奴が負けていくとき。 視ていて軽い自死のような感覚に? 確かに、そうしたものだ。 勝たなくてもいいが、うなだれて欲しくない。 いっそ、自惚れをたたき殺していく道のりを共に歩むとさえ体感している。
自分への攻撃は平気。 が、他者へのそれは心配という場合が。 実は、単に傲慢なだけのときも。 心を乱しても貢献につながらないときがあるのだ。 すべての攻撃を葬り、立ち続けられる場所の像を描き続ける――。
高齢者特有の愉しみとは何か。 生きがいと言い換えてもいい。 まさか、この世からのおさらば? 絶望が切実に蠢いてしまうだろう世代。 仮に逃亡であってもいい、死体への道を受容していくことはできないものか。
自転車が好みだ。 どこまでも自力で向かっていくことができる感覚。 自由で、希望の乗り物か。 が、自動車からの嫌がらせ、歩道を走る無謀な乗り方はご勘弁を。 無言で笑いさんざめくことは手放したくないもの。
母の胸、父の膝で聴いていた唄を想い出そうとする。 時代は変わっていくとの声自体、時代を変えていこうとする行為。 風に吹かれて吹かれっぱなし。 でもさ、扉を叩いていくしかない。 泣きじゃくりながらでも。
視終えた、過ぎ去る日々。 衰えで鬱々とするときが。 が、衰えとは一体、何? 負の事態の状況認識を、したり顔で話すことに慣れていない。 慣れるわけもないさと、もう1度、視終えていない日々を視始めている。
熊本へ連絡を。 結果、友人知己が無事で、ひと安心とはこのことかと。 が、わたしは、決定的にダメなクズ。 生涯の友となるかも知れない、そう、小汚い高齢者のことを想わなかった。 見知らぬ死んでいった人よ。
人様に伝えるほどではない1日。 その日、微かに笑い合った。 記憶にとどまらない小さなことも起きたはずだ。 が、簡単にはまとめられないと、あらためて。 そも、まとめようとしないほうがいいときがあるのだ。
近所には川が流れている。 それだけで束の間、心が安らぐときも。 いわゆる小汚いドブ川だ。 夏、微かに臭う場所もある。 それでも川は川だ、クサクサしたとき、音を聴き、何より水の流れを感じに行くのだった。
そうさ、今すぐ家に帰りたいだけ。 単なる集合住宅だけれどさ。 家族がいようがいまいが、関係ない。 もういい加減、働くことをサッサとやめたいんだ。 素早く帰って寝転んで、大きなアクビをしたいだけなのさ。
結論がすべて? 確かに、善人が最後には幸を独り占め、周囲は疲労困憊ということも。 が、「それだけでもないな」と。 人生の最後が悪くとも構いはしないという場所へ行けないものか。 ただ、最悪は避けたいが。
小さなノートを内ポケットに。 聴きたい音楽や観たい映画、読みたい本などを記録してある。 が、増えるばかりだ。 目先のことに追われ、豊かな老後に縁はない。 ノートは役立たずの呈だが、捨てずに記してゆく。
死というから見え難いのだ。 死体を想え。 あるいは、終わりと考えてゆくのだ。 この先とか、明日、未来などとは関係がなくなるんだ、あくまでも今・ここで。 脳髄で、ひっそりと音楽を鳴らしていければいいさ。
自由や解放、平等――。 「土台、無理な話」という想いがいつからかある。 だが、他にやることもなし? いや、実は悪さえ潜む無理難題に反応してしまうだけ。 雨の後の晴天は気持ちいいが、苦痛のときもあるさ。
どん底の体験者に想いを馳せる。 何もできないことは当然だが、感じ取ろうとはする。 残された想像力を駆使して。 が、その一方で、体験はついに伝わらないとも知っている。 その狭間を投げ捨てずに今日に立つ。
死を前にして、虚無にとらわれる。 当然のことだ、否定してどうする? いつまでも止まっていてもいいとさえ想う。 負の受容というわけではない、虚無という解放だ。 その程度は考えたっていいんじゃあないのか。
爺さん3人が公園に。 疎ましいほどではないが、賑やかではある。 聴こうとしなくても聴こえて来る不満に不安、何より不遇ぶり。 言葉の意味の行き来は、成立していない。 が、意思の疎通は十分できていたのだ。
犬を殺す映像を視てしまった。 棒で叩けば一瞬だけ悲鳴が響き、皮を剥ぐ中年男の手には血。 食べるのだろうか、どうするのだろうか。 胸くそが悪くなり、映像は止めた。 あの犬はわたしなのだと、つくづく――。
賑やかな女性陣がやって来る。 「ストレスで、めっちゃ食べてる」 飢えた人々の写真を視たばかりだった。 最大の負荷とも言える戦時下に生きる人々の恐怖に捕まった無表情。 馴染みの途方に暮れる感覚が飛来を。
強いだけではダメだ。 弱さもまた、共有しなければ。 めざす場所へ向かうにあたっての基本だ。 「動くコミュニティー」と呟いてみる。 擦り寄ってきた子犬に実は、わたしもまた無条件に向かって行ったのである。
どうなっているのか。 下は下を蔑視して、果ては憎んでいる。 中はと言えば、相変わらず下を蔑み、物笑いの種に。 かくして、上は概ね無関心、あはは、むしり取ろうするだけ。 日出処の素晴らしき糞ったれども。
業績が悪かったとしよう。 が、変わっていこう、変えていこうとする意思を持つ者がいればいいのだが。 少数であれ、いて欲しい。 希望はなくとも、存在こそが光明だ。 気分はもう少数部族、いいんじゃあないか。