2009-09-01から1ヶ月間の記事一覧
ほんの少し前のこと、多くの方々が戦争で亡くなられた。 被害・加害、渾然一体の中で。 私は、また出かけよう。 本来いらぬが、手を合わせたいが故にある墓へと。 見知らぬ親族も眠る、石の温もりに触れるため。
万が一、グルリに役立てば嬉しいが、 生きた証は決して求めていない。
散歩の途上、娘が話しかけてくる。 軽蔑や憎悪、高慢や恐怖など、微塵も介在しない親和性。 私は黙したまま、 「些細なことを楽しく感じられる力があれば十二分」と体感、 2人で歩き続けることにした。
損得勘定ばかりのご時世に、 すばしっこくて頭脳明晰、そのくせ何やら鈍な輩にそそのかされ、 正直者はやっぱり馬鹿をみている。 そうして、隣人に気づく、同じ匂いのする。 何よりさ。
今日もまた、 かけがえのない 普通の1日でありますように。
詩人は輝く盗人。 その証拠に、 「命を革める革命」(注1)の契機を奪われてもなお、 「夢見る力」(注2)を回復させようと、 妖しく光る垂直的言説で、 人心を奪う者さえいる。
土地ではなく、土に惹かれる。 都合のいい普遍はないが、 土と暮らすことを自ら望み、 身心も静かに耕してきた人々が皆、 似た表情なのは何故? 思い立ち、狭い畑でスコップを握る早朝、 鳥が飛び立つ。
最高に効率のよい最低の消費行動、戦争。 それより儲かるアイデアはないのかな。 失業対策にもなってきた兵器と暮らす職業。 それより確かなシステムはないのかな。 ただでさえ、老後のゆとりなど描けない中で。
壁よ、 「禁止することを禁止する」と語る前に、 「決めることを決めるな」と語れ。
空腹なときもあったが、 この56年間、 十分食べてきた。 今や食は細くなっている。 とはいえ、今後もまた、食べていく。
ファック・ユー? カタカナ語に逃げず、言葉は適切に使いましょう。 「糞ったれ」、ないしは「テメエ、ぶっ殺すぞ」ではいかがでしょう。 えっ、リストラ? 首切り、いや「人殺し!」と、腹からの大声でどうぞ。
世界への出口であり、 家族への入口でもある食卓。 時に独りへの窓口ともなり、 燗をつける。
身心の健康・安全を守る術を十全に体得しても、 結局のところ、 社会・環境に左右されてしまうものだ。
「失って初めて気づく大切なもの」という文脈は常。 ただ、体力の衰えには愕然とする。 やはり、私という肉を腐らせ、私を食中毒、いや自家中毒にさせぬよう、 歩き中毒、つまりはアル中として酒とつき合うか。
癌と告知され、主治医の前で思わず、 「ガ〜ン」ともらした母親の アサハカな夜は老けゆく。 今はもう合掌、誰もいない海。 まっ、母ちゃん、1杯やっか?
長野の長命化の源にはヴ・ナロード(人民の中へ)の精神がある。 蒙を啓く運動であるにも関わらず、耳を塞ぎ、目を瞑り、口を閉ざす人々を責めてはいない。 医療従事者たちは、共に生きようとしただけなのだ。
加齢とともにろくなこたあない。 同世代同様、死は身近となるばかりで、 周囲には介護に認知症、リストラが続く。 が、不条理こそ人生、 朝からしっかり食べ、暮らしていくだけ。 祝福の術は手中にこそある。
子どもは春、若者は夏、中年は秋、高齢者は冬を生きているという。 ただ、秋に半袖1枚で過ごせる日もあれば、 冬の山頂で夏と同じ汗を拭うことも可能だ。 1日を通じて四季を体感することも、もちろん。
共に喜び、怒り、哀しんだ人々より、 他愛なきことでさえゲラゲラ笑い合えた奴らのほうが、 深いかどうかは分からぬが、結果的に長いつき合いとなっている。 私の関係性の故郷。 故郷は消せない、なくならない。
私が生まれてから、つい今しがたまで、 とんでもない世の中ばかりだったという。 笑みがこぼれた日々でさえ。 そうだ、茄子を食べよう。 失うわけにはいかぬ食卓で過ごしやすき気候は薬味。 秋を生きる。
酒席で、「食欲と空腹は違うぜ」と言いかけ、 果たして今の俺はどちらかと黙り込む。 酔うほどに腹十分は肥大化し、ついには不明に。 当然、腹八分は無効となる。 窓の外、秋の夜空には欠けた月──。
「人は所帯を持ち時間をかけて恋心を失っていくんだな」「で?」 「家族愛、否、人類愛に目覚めるんだ」「単なる隣人愛だろうが」 「そっかあ」「今は俺たちがまだ、異性愛と近似の執着で暮らしていて残念なだけさ」
排他性に満ちた辛気臭い言葉。 全能感・多幸感に囚われ、飛び出てきたのだろう。 何様か、認めて欲しいことを陰湿に隠す自家撞着。 もう出て行こう、獣たちが眠る前の森へと。 1杯の熱いお茶を呑むために。
大人たちの狼狽をよそに、 雨漏りが奏でるリズムにあわせて、 子どもたちは手を叩き、歌い、踊ることができるんだ。
校庭で私を見つけた顔見知り。 血相を変え、走ってきた。不吉な予感も走る。 目の前で息を整え、彼は言う。「夏休み、終わっちゃったね」 手元のボールを手渡す。キャッチボールを始めた。 友達と。
わららが狂喜の、 「体験の体験化・体験の情報化・情報の体験化・情報の情報化」が問われる世紀の、 生き延びる道を教えよ。
人の前腕内側中央あたりは、 生涯にわたって日が当たりにくいとか。 だからこそ、子ども時代の皮膚を多少なりとも保てるそうな。 その場所を空と交互に眺めれば、 日当たり悪きことの効用に思い至って愉快なり。
深夜、家路を急ぐ。 雨が降り出していた。 少し、そう、ほんの少しだけ雨が降り出していた。 顔にはやわらかく水滴が積もっていく。 秋の来訪を告げる夏が、「あばよ」と。 私は、「またな」と自転車を降りる。
戦禍で暮らす子どもたちのため、 家族にも知らせず、 貯金通帳をそっと差し出す、ご高齢の方々がいらっしゃる。 「私には先がない」と。 脳裏に餓死する姿が浮かぶが、 「構いはしない、私はもう生きた」と。
不治の病、金欠病。 毎度毎度のお馴染みさんらしい。 特効薬はあるにはあるようだが、とんと見かけない。 今や症状の進行を見守るばかりか。 って、おいおい、単に俺のことかあ。