2014-06-01から1ヶ月間の記事一覧
酒は進み、夜は更けて老けていく。 「そりゃあ勝ったほうがいいけれど、負け続けたほうがオツじゃね?」 焼き鳥を頬張り、ダチが言う、「何だ、それ」。 「まんまさ」 雨上がりの夜空に鳥たちが飛び立っていく。
路上に何かの死骸。 わたしは言う、「狭い日本、譲ったり譲られたりが当然だべさ」 ダチ曰く、「ヒヤッとさせたら、ごめんなさいとか言っちゃって」。 連れ立って歩く傍らを、チャリが疾駆。 鳥の死骸が視界に。
人は死に続ける。 想いが希薄になっている? 整理整頓や掃除、あるいは片づけのような言葉ばかりだもの。 一方、悼みを追うとき、絞り出されてくる定型の言葉。 横溢する想いがあればこそと、あらためて気づく。
疲れているのかどうか分からないほど疲れている――。 そう、若いころ記したことが。 いつのことだったろう、覚えてはいないが、言葉がふいに。 今、十全な疲労とは遠くの場所で疲れている? 大雨が降っていた。
彼の身のこなしは、親切で温和だ。 ときに軽く逡巡、立ち止まる。 ただ、閃きが訪れると、嬉しい表情を率直に、衒いもなく浮かべもするのだった。 知っているのだ。 出逢うためには、やり過ごすことも大切だと。
酒が好きかどうか、考えてしまった。 昔から、単に酔いたいだけではないのかと。 舌触りや喉越しがいいだけではないのかとも。 「あるいは」と杯は空いていくばかりだった。 仲間と呑む愉快をも、味わいながら。
ダチがガキのようなことを。 「世間じゃ、フーコーやランボー、ジュネなんか関係ないんだよ、両村上は知っていても」 苦笑、かつ爆笑を。 来るべき美しい輪郭を描くことに心血を注ぐ営為。 朧で、実はリアルだ。
自分という身体の楽器に触れていく。 すると、「反対だ」と、静かに、確かに伝わってくる。 が、立ちはだかるのは、聴く耳を持たぬ自分という身体。 楽器自体を放り投げる場合も。 響かせて行けるといいのだが。
正論を吐く輩が踏みつけている野の花。 いや、人様の足。 そも、正論が単なる暴挙でしかないときがある。 しかも、正論を内包できず、巻き込まれっぱなしの愚さえ――。 野の花を長く見つめ続けていた朝がある。
身心ともにクタクタになるまで働く。 回復を願う、待つ。 思いつくのは、子ども騙しならぬ大人騙しの娯楽? せっかく稼いだんだ、別のことに使う。 例えば切符ぐらい購入、山の中へお茶を飲みに行くのがいいな。
おいそれとは傷つかなくなった。 ただ、知らず知らずのうちに壊れている、いく。 気づけば、あちこちにガタが来ていて、ハイ、それまでよ? はてさて。 今も、この肉という乗り物の操縦、いや、乗り方が難しい。
自己表現の後、何処へ行くのだろう? 知っているよ、表現の解体・解体の表現だと。 そうして、何処へ向かう? 知ったことではないが、1つ言いたい。 「表現が祝福のために、いつも生まれてくるといいのに」と。
働いている現場に便りが届く。 ビジネスの話ではなかった。 「老木にも若木にも新緑が」とあったのである。 送り手のことを想像しつつ、熱いお茶を啜る。 そうして、肉筆から目を離して呟く、「そうだよな」と。
最先端のことが古臭くなる瞬間。 逆に新鮮になるときも。 だからどうこうなのではない。 その浮遊の中、暮らしていくだけだ。 勝敗には混濁したくないが、「ゲラゲラやっていたほうが勝ちだよな」と体感しつつ。
男は雄々しいもの。 何より闘うことが本懐? むしろ、「抱きしめて」と率直に歌う男たちがいたことを想起する。 弱さを吐露できる強さの如き領域。 実は歌いにくいことをリアルに伝え世界を抱きしめていたんだ。
静かに呑む最後の1杯。 朝が滲み始める頃合いだ。 パン屋で働くアイツは腰をかばい、働き始めているのだろう。 おれは後、少しだけ座っている。 才能や努力、勘といった不確かな言葉で判断すまいと感じながら。
進歩という破壊への疑義。 と同時に退化こそ進歩の証との言説も。 血税で原発の安全神話を宣伝する輩。 一方、マンガ1つで全否定される人も。 変わらないために変わり続けたり、変わるために座り続けたり――。
何が武蔵野? 緑は多いものの、とどのつまりは家々が建ち並び、私有地ばかり。 小走りしていても、許してください。 お宅の中には、決して入りませんので。 ただただ、慌てふためいて、焦っているだけですから。
憂うつだが、望みがすべて絶たれたわけではない。 が、晴れやかなわけもなし。 何だろう、この心持ち――。 気づく、中途半端なものの、気分はオカマだと。 お前の身心の方言と、わたしのそれとを重ねていこう。
忘れ物を取りに部屋へ戻る時間はなし。 ドンドン・ズンズンと突き進むしかない。 それはそうなのだが。 道を尋ねるつもりもなく、こめかみが震えている。 そのとき訪れた雨の唄、半歩でもいい、踊り出してやれ。
酔うほどに口は滑らかに、賑やかに。 彼がふと呟く。 「東京にもいずれ自然災害が。怯むな、おれを捨てろ、それが生き延びる道だと、家族に伝えた」 静寂、または静寂。 そうして、わたしたちは首肯するばかり。
1人の全容について語り切る困難。 何故? 時代や状況、関係や環境等とともに、人はあるからだ。 にもかかわらず、語りたい欲求は消えない? せめて、支えてきた周囲を繰り込みつつ語り出していこう、そう想う。
世間なる卓袱台を引っくり返そうとして痛い目をみた彼。 結果、家へ戻る。 「笑えるな、既にオヤジは死んでいて」 今は1人で母親の介護を。 ニッと笑い、「消えた女房が見たら驚くな、炊事洗濯の上達ぶりに」。
近代絵画の複製を視ていた。 中年男が寂しげに緑道を歩いている、それだけの場面。 ただ、長く気になってきた。 そうして、「そうだったのか」と。 男の視ているものを視ない限り、視続けていくのだろうと――。
寝静まったというのに相応しい時間帯。 街を通り抜ける。 古からストレスを解消してくれる言葉はどれも似ているものだ。 やましいことをしていないのであれば糾弾されても大丈夫とか。 わたしを通り抜けていく。
青空の下。 連れ立って歩く年下の彼が言う。 「分からないんです、家を建てられるわけが」 働き続けて来たが、「家族を楽にさせられなくて…」。 「感動や悲劇へと収斂させないことだよな」と、ひょいと応じた。
用意周到に張り巡らされた集金システム。 収奪と言い換えられる緻密さだ。 今も肩書きにお金が支払われている。 背後を失わない限り、貧相な人々さえいい気に。 切断面を間違えるな、自らの肉も飛び散っていく。
久しぶりに親戚からの電話。 不吉な予感に貫かれる。 「元気ですか?」と問えば、「まあ、何とか」の常套句。 言葉を待つことしばし。 すると、「落語会があってさ、行かないか」といった胸が膨らむ落ちが届く。
盲導犬と暮らす人と街歩きを。 胸を縮める恐怖。 工事や自転車走行、はみ出した看板等。 が、1人と1頭は難なく歩く。 素晴らしい音楽が楽器を超えていくように、2つの生命は微笑み、清々しく歩き続けていく。
大往生とは? 食事ができなくなり、意識は消え、呼吸が難しくなって、心臓が止まること。 死斑もうかがえる。 表情や臭いでも分かる人の生き死に。 今、食事に排泄、入浴ができるだけで、「ありがてえなあ」と。