2013-06-01から1ヶ月間の記事一覧
かつて何人かで廃屋を借りていた。 家賃1人当たり月5百円。 手入れを終えたとき、外観は変わらずとも家の産声を確かに聴いた。 そうして、水を引きに山中へ。 蛇口をひねり水が出たとき、明らかな歓声が――。
廃屋や朽ち果てた民間アパートに惹かれてきた。 どれほど経つだろう。 貧しいと世間が眩しくて、目はつぶれる。 そうした折、人の去った情景がゆっくりと沁みて来るのだ。 結果、視力は回復、立ち上がっていく。
忘れてゆく、どんどん、そう、どんどん。 そのくせ、今が十全というわけでもないあたりが、なになのかと。 実に、なになのか。 胡坐をかき、窓の外を眺めれば曇天といった按配。 だが、手を打ったわけではない。
百年後の子どもたちのほうが、学ぶ量は確実に増えている。 このことの意味は何か。 現代人は学ぶ対象に値しないようであるが。 今も海や山は眩しい。 学ぶ必要がない暮らしというヴィジョンもあっていいだろう。
缶カラが路上に捨てられていた。 製造元で働いていたら拾ったろうか。 メールしつつ歩く人も増えた。 メーカーにいたとして、悲しんだろうか。 電力会社の勤労者だったら、皆は声をかけてくれるのだろうかとも。
大それたことが言いたいのではない。 自分にとって大切なことを記していくばかりだ。 あなたが無事で、佳き今日を迎えられるための言葉。 基本は想いだ。 視える言葉が立ち上がってきて欲しいばかりなのだった。
遠くから唄が聴こえて来たような、そうでないような。 すると涙が突然出てきていた。 鎧が解け、無防備になったから? 裸になる強さは知っていたが、困惑するばかり也。 必要もなく、隠れ場所を探す街の中――。
道端で爺さんと目が合う。 「あんた、寄ってくかい?」 平仮名で呼びかけられた。 即、「はい」と、わたしに一番近いわたしの口元から。 爺さんは腰を伸ばし、店を開け、目の前のコップになみなみと注ぎ始める。
カラスを観察中の友人が、巣作りについて伝えてきた。 その営みに胸が締め付けられたようだ。 健気に見え、生存を賭していたと。 カラスも人も不吉な存在。 いや、カラスの子を守る自衛のほうが、実に眩しいと。
ゆったりと歩く人がいた。 追い抜こうとする人も。 が、順番は変わらない。 よくよく見れば、ゆとりを感じさせる効率的歩行と、息せき切っているだけの非効率的歩行。 ふいに、「自由な身振りに自由は存す」と。
息を吸い終えるときまでに、大切な心をどれほど育てることができるだろう。 自分の記憶は外側にもある。 まず耕していくのだ。 明日、寛ぐ人がいるのだから、今いる場所は汚すまい。 今日は今日の種を蒔きつつ。
闘う際の原則は、逃げ道の確認・確保からとは何度でも。 勝つためではなく、負けないためにだ。 正体をなくすまで、やられることはない。 背伸びをして遠くまで見渡す。 這いつくばって道のりを見定めてもいく。
「流された家が、そのまま棺桶さ」 どう応じていいのか、逡巡。 すると、「あはは」と笑われ、「あんた、いい人だね」。 顔を上げて、即否定、「単なる阿呆ですよ」と。 手を合わせた仮設仏壇には笑顔の人――。
宇宙には暦がない。 方角や笑い声もまた。 ただ、今日は月曜日、西へ東へと動き回る暑い1日だ。 自らの卑小さ、臆病ぶり、脆弱さを見詰めていこう。 そこに依拠して、どこまで行くことができるかが、肝の心だ。
人は、生き難いとき何を支えにするの? まず、お金が必要だ。 視野広く見渡し、バランス感覚を杖に移動も。 そうした前提を了解しつつ、つい、「ふざけろ」と浅い呼吸に。 ときに、やり過ごしながら、月の下へ。
興趣に富む悲哀なら、まだひと息つける。 薄氷を踏む想いで、実は水浸しの中だ。 進んでいるのではなく、単に大渋滞か。 故事を超えていく? いや、失った後にも失っていくのだ、失わずに済む暮らしを求めつつ。
疎ましい雨がまた、降り出したね。 美しさが哀しさに転じるときの、哀しい美しさが滲むよ。 馴染めない苦役としての労働? いや、労働は今も苦そのもの。 厭きる程度の楽しみは雨に流して、声を浴びていこうか。
事実を指摘しただけで発言した気になるなんて。 半歩先も語っていないのに。 共感できないのは、共生できないと分かってしまったから。 道しるべとなる言葉を。 生き延びていく、共生へ向けた共感からの言葉で。
戦後、焼け野原で立ち尽くした方が言う。 「東日本大震災後とでは明確に違う」 そう呟き、「放射能が怖くない明日があった」と。 彼はゆっくり席を立つ。 ひと息つくため、「お茶を入れましょう」と足下を見る。
やはり森だ。 絵画や写真で決まって惹きつけられる題材は。 実は不気味だが、心が豊かになっていく切り取られた森。 静謐で賑やか、薄暗くて明るく拡がっている。 もう気づいている、現実の森に今、呼ばれたと。
戦争は鬼の如き容貌でやって来るわけではない。 親しげに寄って来るのだ。 自由・平等・博愛をもたらすと喧伝しつつ。 気づけば渦中の人となり、夏でも震えて飢え、血まみれに。 拳を隠し、強く握り締めている。
生きている間に観たいシーンがある。 叶わぬとは知っているのだが。 だからか、幾度も脳髄で想い描いてきた。 なに、他愛ないことだ。 陽射しの下、人々が集まり死者と穏やかに語らっている、それだけなのだが。
呼吸がしやすくなる暮らしはつかめるのか? 言い難いことだが、記しておく。 「何も残らないことに微笑めるヴィジョンがあってもいい」と。 毎朝、快適に目覚めるのに必要なものは? 実は、そう多くはないのだ。
酩酊の夜中、車は走っておらず、人もいない。 赤信号がポツネンと。 「奇妙な花が宙で咲いているな」と。 「砂漠の信号でも待つだろうか」とも。 その後だ、水たまりに映る赤が月に被る様子に見惚れていたのは。
子どもの泣き声と犬の哀しい目、遠くからの金切り声。 もう出遭いたくはない。 退屈な平穏は、かけがえがないものだ。 忍耐の結果ではない。 教えられた記憶はないが、何故か朝に手のひらを自然と合わせている。
生きることが下手だと大変だ。 が、単純に諦めるしかない。 巧みになれば必ず臭う身振りがないだけマシだと。 のぼりつめる人は技巧を捨てることに腐心するものだ。 いつでも、どこでも脱ぎ始められるのである。
昔ながらの民間アパート2階のドアが開く。 爺さんが出てきた。 目の前には、急な階段。 手すりにつかまり、1歩、また1歩と下りてくる。 地面に着地して、ため息を吐きつつ、天を見上げて、もう1つため息を。
暮らしていくだけで何が悪かろう。 それでいいんじゃあないのか。 疎ましきは幸福至上主義に幸福ファシズム、幸福症候群。 不幸だろうが、勝てなかろうが構わない。 負けない暮らしを送っていけるのなら十二分。海女(あま)のいる風景作者: 大崎映晋出版社/メ…
現実の前でなく、渦に揉まれる、現実の自分・自分の現実。 大地にしっかりと足をつける? 足下は揺れ続けたままだよ。 慌て散らかして右往左往さ。 落ち着き払うことができない場所からの半歩が、互いの1歩へ。
体験からの教訓が活かされないのは有史以来? 経験まで止揚したとしてどうか。 伝わらない上に無視さえされている。 暑くなってきても、朝、湯を沸かすことに変わりはないのだが。 今朝も古の人々と話している。