2012-09-01から1ヶ月間の記事一覧
遠回りをして、木々の下を歩いていた。 真冬でも、涼しさが心地よい場所。 手に負えぬ事態が飛来していても、静かな心持ちになれる時間。 ふいに、抱きしめたいと。 抱きしめられている感覚が目覚めていたのだ。
殴られるより、足をすくわれたほうが、こたえるときがある。 足下を失うより、困惑するときも。 知恵を受容できて、つながる。 今は歩けるだけで寿げる日々か。 いっそ、眠りながら歩ける舗道はないものか――。
疲弊がうとましいなら、まだいい。 疲れが美しく透き通ってきたら危険信号。 きれい過ぎて人肌が匂わぬ妄想の産物同様だからだ。 出逢えば了、出逢ってしまっただけでオシマイ。 死の冬から足をずらすしかない。
しっかりと歩く、機会さえあれば。 乾きやすいシャツに着替え、靴紐を結び直す。 歩幅をいつもより広げ、背筋を伸ばし、胸は反らさずに下は向かず、早足でゆったりと歩く。 いつしか、脳髄も身体となり、爽快に。
馬鹿みたいに働いてきた。 馬鹿が馬鹿の真似をして洒落にはならぬと承知している。 要は馬鹿が働き続けて、脳天破裂気分。 放射性物質を撒き散らし続けるスケールには、まったく敵わぬ馬鹿ぶりなのではあったが。
「ミーコ」と話しかける女性の声。 振り返れば、散歩途上の様子だ。 女性は伸びをし、腰を軽く叩く。 「70を超え、走れないのよ」、続けて、「ごめんね」と。 柴犬は、飼い主をいよいよ見つめている、じっと。
秋、腹が減るだけで、寒くて寂しくなる。 よほどのもの以外、美味しく食べられるのだが、共に食すものがいれば、なおいい。 生命をいただく不気味さ、それを散らす共犯者。 天高く地低い中、どこでも食卓となる。
針箱をまじまじと覗き込んだのは、いつの日か。 ナフタリンの匂いも微かに漂ってきて。 戦々恐々の興味津々。 昨日と同じ、風鈴をしまい込んだ日だった? ズボンの穴は消え、片付けられ針箱の場所にも夏の名残。
高齢者から、安心が蒸発した国。 道行く人々は、居場所を見失うばかり。 暮らしから暮らしへと向かう唄が発生しない地上に、何が生えるのか。 胆で唸ることさえ消えた敗戦続きの領土。 行き倒れからの出立――。
口は強く意見できる。 目が熱く訴えかけてくることも。 一方、耳はただ受け止めるだけ。 人と人との間で気配が曇ったとき、押し黙り、両者の耳をじっと見つめる。 晴れ渡った精神の耳が生まれることを願いつつ。
過ちを犯したとき、媚び、へつらい、自らを台なしにすることはない。 まず、親という場所にだけは確実に詫びておく。 作って、守り、拡がってゆくのだ。 あざ笑われても、小雨がやさしく降ってくれるときもある。
降り始めたね、もう帰ろうか。 雨脚が強くなってきたもの、消えるに限るさ。 雨が走っていく、追いやっていく、叩いていく。 あっ、水溜りがいくつも――。 上がるのを待ち、路上に月を探すのなら、つき合うよ。
あの夏を忘れていた、この夏も忘れるのだろうか。 ただ、残っている、数は少ないが、手放せない言葉。 鳥たちは、同じ頃合いに、同じ木々へ帰って来る。 そうして、同時に飛び去って行く。 初秋に見つめている。
「どう生きているか説明できなければいけない」との言。 最近、考えたこともなかった。 どう暮らしていくかばかりに捕まってきたのだから。 「考えてみるか」と自らの肩を叩く。 まず温かいご飯に味噌汁からだ。
地元で親しまれてきた店舗経営者が言う。 「実はね、お客様は神様ではなくて、親なんだよ」 育ててくれたのだ、「孝行は当然」と言う。 「後は見捨てられないよう、ぶれないこと。それで駄目なら、諦めがつくよ」
唄がやってきたとき、唄に包まれるとき。 唄を歌うとき、唄が伝播していくとき――。 唄を分解・解析しても、その力には届かない。 唄に捕まえられた身心は、捕まえている。 出逢う前と、出逢った後の変化を。
「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮」と、アドルノ。 3月11日以降、詩を書くことは恥知らずともなった。 が、それでも書かざるを得ない。 だから、と言おうか。 おはよう、こんにちは、こんばんは。
ただただ地下へ。 暗いものの、目は次第になれるだろう。 ひんやりとしていても、隣人がいれば地上より温かいときさえある。 実は軽くて広く、裏表さえなくて平ら、そも、単純。 そのように暮らせる地下もある。
まず、しっかりと靴紐を結び直す。 続いて、人と手を握るのだ。 すると、自らの首を絞める、飛び降りる、刃物を手にするなどできない。 それからだ、階段を1歩いっぽ、確かめながら、ていねいに降りていくのは。
連れ立ち歩く楽しみは、語り合いにもある。 が、声を大にしなければならぬ場所ばかり。 互いが居場所となる放し合いさえ困難なのか。 炎天下の公園へ逃げ込めば、小さな声が言葉少なく届く。 響きに身を預ける。
マナーどころか、ルールも雲散霧消――。 根が腐ってしまったのだ。 肥料はもちろん、水の与え過ぎも厳禁、陽射しや酸素の不足もまた禁忌だ。 要は、適度という案分、よって立つ土の回復。 理の具現化しかない。
単一の国家を超えた世界的金融資本。 この国の雇用や医療、何より暮らしを瓦解させている。 すがるところはもう、ない? 不信に信で人心地、足下の枯れそうな雑草に眼をやる。 苛立つほどには、愛はないはずだ。
言葉というメディアにふさわしいメディア――。 もう登場したのだろうか? 言葉を、贈り物として送・受信し合う世界。 まだ亡命者だらけである。 だが、すでに、そこで暮らす住民として、言葉を浴びられないか。
時代が、状況が、歴史が、例えば教育が植えつけてくる強迫観念。 自己表現という名のドグマ。 何者でもないことへの着地が大切だ。 ただ暮らしていくことを怖がることはない。 いつか自分ともおさらばするのだ。
熱狂的イベントに出喰わすと思う。 「寂しいものだな」 眼前の現実で十分、声援は近ければいいというものでもない。 「歌え、暮らし」と言うのでは、すかし過ぎか。 歩幅を狭めるときもある、歩き続けるために。
あっけなく惹きつけられていく。 夏の水平線に夕陽、潮風、秋の屋根に猫、月。 冬の森に新雪、木漏れ日、春の富士山に柴犬、桜。 今朝も今朝とて地上を歩けば、通年、風通しをよくしてくれる朝陽に植物、朝露――。
お前が勉強をしている姿――。 思い出したことがあるよ。 隣の清ちゃんと遊ぶ時間が待ち遠しかったことや、あれこれさ。 何をしたいかは明確だったな、次から次に生まれてきたな。 なんだ、今のお前と同じだね。
自転車が横断歩道の向こう側で止まる。 彼は汗を拭う、水を少し含む、ひと息つく。 人々は歩き出していたが、視線は雲のほう。 ただ、その後、お年寄りが渡り切ったのを確認した途端、一気に走り抜けたのだった。
いつのことか、宿題をし残している感覚に捕まってしまったのは。 宿題は、あれ、これ、それではない。 ただ、分かっている、手をつけなければならぬと。 誰にも提出しない宿題があると、あらためて思い出す初秋。
貨幣や物、サービスは必要だ。 ただ、一緒に、心のこもった時間を過ごすことが奪われていたのでは…。 愉快な雰囲気が横溢していれば、子らも熱心に勉強をするものだ。 結果、広大で、深い場所へ辿り着くだろう。