2017-03-01から1ヶ月間の記事一覧
東日本大震災の折だ。 原発問題が勃発したときのこと。 わけが分からず恐怖が蔓延をした。 そうした中、専門家でもないのに、素人とせせら笑う傾向も。 覚えているよ、得意げに嘲笑した人の、その後の呑気さを。
いずれ、ここには立っていられなくなるだろう。 事実、人を喰らう人が数え切れないほどだ。 何より身心さえ弱り、情けない想いも。 いつか去るときに一瞥。 いた場所がせめて温かい土となっていればいいのだが。
心に渦巻く情念なんて面倒なだけさ。 脳に飛来して蠢く言葉だけでも埒は明かない。 生命の根源に巣食う利己主義からも逃げたいよ。 何より、からだの苦痛は勘弁して欲しい。 解放という妄想を持って当然だべさ。
理解できないことがある。 公然と嘘を言い放つことではない。 益にもならず、後悔もしない点が分からないのだ。 が、理解しようとしているわけではない。 分からないという姿勢を、とり続けられればいいのだが。
逆ビンゴのような場所に追いやられている。 大切な日々の、小さな物語。 どんどん台なしになっていく。 所持金もわずかで、カジノに立ち尽くしているかのよう? センスはいらない、笑い飛ばしていければいいさ。
嘘か、本当か。 また、事実か、真実かといった問い。 が、単純に、視たい現実しか視ていない癖が跋扈している? だからだ、自分が正しいと、思い込むのは。 当事者であるにも関わらず、観客と化したわたしたち。
正面から強風が。 身体を前に倒し、爪先に力を入れて歩んでいくものだ。 逆に追い風ともなれば、身体をそらし、踵側で進んでいく。 当たり前のこと? 風に乗ることは難しいが、抵抗は少ないほうが余力は残せる。
想いを切り売りする感情労働が相変わらずだ。 「どうにかならんかなあ」と街中で。 沈黙の人類史をも、ふと想う。 人は話していても黙っているときがあるのだった。 その逆もまたあるが、今も声を上げるときだ。
フローチャートにチェックリスト。 貸借対照表に、その他諸々。 医療の現場でも必要なのは理解できる。 が、ついに納得できない領域も。 改ざんして生命をないがしろにしては、「善悪を超え、いかんだろう」と。
生涯現役。 生涯会社員と同義であれば、「ちょっとな」ではあるが。 「そも、貨幣経済からは逃れられない?」と書生じみたことを。 「楽はしたいよな」とも想う。 人の犠牲の上ではない楽はあるのかと考えつつ。
説明はできない、当然、解決もできない。 ガサツなのだ、呼吸が。 言葉で拮抗しても届くわけもなし? 投げたものというより、好き勝手仕出かしているだけじゃないのか。 批判の精度は上がっても疲れるばかりだ。
「だからさ、ベッドで寝ていればいいのよ」 「だって、退屈じゃない?」 「何、言ってんの、家族を心配させてやるのよ」 体調がよくなった婆さん、かくして、「そうよねえ」と元気に。 その手、通じればいいね。
文章を公表するとは、ナンパすることだ。 お茶を飲みに連れ出すのと同じことである。 そこからだ、大切なのは。 行った先で、お茶のみならず、美味しくて健康にいいケーキを提供する――。 話は尽きないだろう。
腐った果物の横にある果物は腐っていく。 「てへっ、逃げるだけさ」 逃げてはいけないことのために、余力を残そうとして。 「余力なんてないわな」と体感しつつも。 錯覚して力が出てくれば、めっけもんだわな。
ヌードにも権力構造が。 ハツラツとした肢体を惜しげもなく晒す女性。 が、決してからんだり、すべてを視せることはない。 一方、あからさまにベッドという土俵で、くんずほぐれつの肉体も。 視線の暴力は続く。
毎日まいにち、朝はやって来る。 たいしたもんだ、朝。 夜も厭きずにやって来て、ったく、偉いもんだ、夜も。 朝と夜の間に労働まみれの、「何だかな」のわたし。 働くことは有害物質だから困ったちゃんだべさ。
還る場所がないとしたら? 旅も虚しい、寂しい。 だってそれはもう、旅とは言えないもの。 ただただ、うろつくだけのこと。 あっ、それこそ真の旅? まあ、どうでもいいが、安心できる寝場所さえあればいいさ。
「人生とは哀しみ」なる言葉。 その通りだろう。 端的に言えば、別れたくなくとも別れざるを得ないときが往々にしてあるのだ。 だからこそなのだ、ときめくことが必要なのである。 刹那であれ、今、この場所で。
眠りという逃避できる場所。 奪われるわけにはいかない。 さて、眠りが死の予行演習だとしたら、老いて、目覚めることは、目覚められることは、幸福なこと。 いや、幸運か。 朝から疲れているときもあるけれど。
「明日死ぬかもしんないしさ」 「おっ、子育て反抗期かい?」 そんな言葉が飛び交う中、スリッパを揃える爺さん。 そうして、深々と、「ありがとうございました」と。 婆さんの身体を支え、心も支えて出ていった。
願う。 密かでいいと。 少しの色で停滞することのない薄い流れを、視続けていたいのだ。 が、絵画を視たいわけではなかったのである。 息を詰めなくていい薄い暮らしを、少しでいいから送りたいだけだったのだ。
「無私で立ち向かえば個性に」 労働や学問、関係でも言えることだ。 そも、戦闘でも。 細分化する必要はないが、一般化しないこと。 何に向かっての無私か、具体的に述べなければ、ついにとんでもないことにも。
理解できない人がいる。 ミスをしても謝らない。 しかも、身近な人の不運・不幸を気にせず、おしゃべりを続けられるのだ。 ミスの自覚はなく、身近な人さえ視界に入っていない? 反射的に、老犬の涙を想起する。
昭和の富豪が暮らした家の写真を視た。 かつて華麗に視えた分、寂しげ。 今のわたしたちは、昔より豊かになった? 実感があるわけもない現実。 そも、平成の家なき子すべてがビフテキを食べているわけではない。
きみは誰? いやかも知れないけれど、今日から素直になればいいさ。 すると気づくはずだ、定義はいらないと。 権力を毛嫌いし、果てのないやさしさを希求している? きみとはいつまでも家族でいられるといいな。
視線は外さない。 決して、決してだ。 しかし、できうる限り目端を利かせ、全貌をつかまえようとすること。 視線が届かないと分かってはいても。 視点がぶれないようにして、視界を広げていこうとするのだった。
暗い内容の本を読んだことがある。 ふと想い出して読み返す。 車窓からの明るく鋭い陽射しのもとで。 そうなのだ、いつでも光の中で読んできたのだ。 その当たり前のことに、あらためて気づき、背伸びをひとつ。
彼は言う。 「もてるのもどうかな」 「後悔が多くなってしまうんじゃあないのか」と言いたそうなのだった。 わたしは、「またまたあ、自慢かよ」と茶化す。 彼は真顔で、「今、後悔しているところなんですよ」と。
独りのとき、おならは嫌ではない。 人がいれば、臭気は一気に認定される。 つまり、おならは、かがすもの? 登場した途端に去ってしまい、しかも臭いの置き土産。 あくびをしている人がいれば大笑いまで一直線。
力ある者のすべきことは何か。 弱く在ることだ、弱さに視力が届くことだ。 したいことも、せざるを得ないこともあるだろう。 が、まずは自分の弱さに気づくこと。 そうして、力を、人が生きることに使うことだ。