2017-07-01から1ヶ月間の記事一覧
今は立ち止まり、たたずむことも大切だろう。 雨乞いでもしていれば、ときは経つ。 仮にだ、雨に嫌な物質が混じっていようとも。 日々の白骨化の中で受け渡すこと・ものを想わざるを得ない。 「どうしたものか」
分かっていたことだ、どうしようもないと。 今後も起こりうる得ることじゃあないのかとも。 歯を抜かれた後、触れてはいけないのについ、舌をやってしまうときのよう? いいや、単純に人が視えていないのだ。 “国民”が身心から欠落しているに違いない。
ご免だ。 例えば高いところに上がって、何が愉しいのだろう。 人とつるみ、道幅いっぱいのおしゃべりにも興味なし。 美味しいものは食べたいが、「なあにが、グルメだ」とも。 単に立って歩いていきたいだけさ。
お金、しかも名誉が欲しい? さらにはアンチエージングとは。 「生きているのか」と言いたくなるのは、僻みだ。 いやはや、もうあれこれと関わりたくはない。 単純に偉く見えるのは友でしかいない、それだけだ。
戦争はうるさいだろう。 煙いだろうし、ゴミばかりが増えていくのだ。 いや、何、人のことなのだが? 夏の休日、川に捨てられたレンガを視た。 いつもは気づかないことに反応したのは暑さばかりのためではない。
手をつないでいた老婆。 相手は、還暦をとうに超えた娘である。 その傍らを、紙袋を抱えた若者が自転車で通り過ぎていく。 よろけそうになる老婆。 すると、娘が、「大丈夫、手は決して離さないからね」と――。
介護の賃労働は、日本では、こけにされている。 が、「嘘を言わない、まともな仕事だよな」と。 基本は直面することに向かい合う。 これだ。 高額所得者にみられるような嘘がないだけでも、安心できるのだった。
洗面所で蛇口をひねる。 水道水が渦を巻いて流れ落ちていく。 理由については諸説あるらしいが、一瞬見惚れてしまう。 視えない力の視覚化といったようなことはまあいい。 慌しい中、薄目で洗顔をしたのだった。
高齢の女性と孫が電車で愉しそうに会話を。 結果、下車すべき駅をどうやら間違えた様子だ。 気づいたのは、孫のほうである。 が、慌ててはいない。 女性が、「多く乗れてよかったわね」と笑い、孫は頷くばかり。
人は最後には死ぬ。 いや、途中でか。 要は死んだから最期なだけだ。 途中なのだ、最後の最後まで。 最期の向こう側へ行き、周囲は最期だったのだと理解するのである。
厳密に取り締まっても、意味がないときも。 突発的なことに安心や安全はないのだから。 無論、原発のことではない。 自由が怖いのは理解できるが、まずの前提だ。 実際、厳しくあればあるほど、笑顔は遠ざかる。
黙々と頑張る人が。 宣伝などせずに。 そも、忙しくて、アピールしている暇もなしか。 もったいないとは想うが、だからこそ続けられる側面も。 額に汗することは少なくなったが、汗は視えない場所でかいている。
記事は、結論をいち早く書くものだ。 長々と説明してから、ようやく結論を示すものではない。 労働の報告と同じことである。 情報社会である、読むべき媒体は増えた。 なお一層、守りたいことになってきたのだ。
中華屋へ。 かつて、小銭があれば通った店である。 よく食べていたものを注文、支払いの段となり驚く。 「へえっ、値上がりも、ここまできたのか」 が、同じ味という、当たり前の幸を味わえたのは、幸運だった。
人々に囲まれるとうっとうしい。 木々なら話は別、快適なのである。 考え方はいくつもあるが、現実は1つだ。 歩く、歩き続ける、汗を拭うという現実を生きながら。 木々を目指しながら、木々の中を歩いていた。
肩慣らしもせず、高くボールを上げる。 我ながら、「おっ」と。 どうしたものか、仕事はろくなもんではない。 相変わらず、出たとこ勝負で何が何やら、やりくりを。 嘘八百の中、事実1つで生きていくしかない。
おれは言う、「行こうぜ」。 「出立の頃合いだ、行こう、行こうぜ」 誰かに向かってというわけでもなく、言うのだ。 何処へなんて、知ったこっちゃあない。 ここへ向かう、ここが変わっていく場所へ行こうぜと。
祈る。 感謝の気持ちではなく。 むしろ謝罪さえ求め祈っているのだ、下水道の臭みの中で憩うことだってあるさと。 もう奪わないで欲しい、暮らしを、ただただ暮らしていくことを。 とはいえ、またやるんだろう?
家族に家庭、しかも家屋が必要だという。 仕事に収入も。 健康が重要だということも分かる。 そりゃあ、分かるよ。 でもさ、どうかな、そうしたことがなくても、暮らしていけることを発明していくしかないんだ。
がさつ、要は気づかない連中。 足を踏む程度ならまだいい。 ゲラゲラ笑ってご近所の環境破壊、その横ではほら、根をつめて命を削り働く人も。 気分はもう、古典的左翼? いいや、まだ視ぬ方位へと、どうしても。
収入の多寡ではなく、貯蓄が大切? いや、そうしたことではない。 心穏やかさが、いかに積もっていくかが問われているのだ。 継続的ケア付き高齢者たちの共同体も試みられている。 気になるのは穏やかさの横溢。
決して叱らなかった。 それ故、叱られたことがないとは、これ如何に。 それはまあいい、大切なことは寸止め。 そうすれば、愉しむのではなく、面白がることだってできる。 ど真ん中に入ることだってできるかも。
直面していくことが働くこと。 何より直面していこうとすることだ。 そうすれば、次々に問題が現れるだろう。 そうして、1つひとつ解決していくのだ。 何より稼ぐためには直面し続けなければならないのである。
笑って死ぬためにすべきこと? 笑いを癖にするしかないのだ。 日ごろから、つい笑ってしまうのである。 条件反射で、たとえ不謹慎と言われようが。 もっとも、昔から、わたしはパア、ポアされかねないほどにだ。
この国の明日はもうどうでもいい? そうした気分にもなる。 が、今日ありったけの不幸を背負って産まれた子もいる。 同時に死で救済された人も。 そうした人々の顔に微笑みが浮かぶのを視たいとは間違っている?
生きるとはいつも、どこでも直面していくこと。 入念に準備し、その場所で役割を果たすことだ。 が、何をどうすればいいか分からない? 簡単さ。 まずは座り、大あくびをするだけでも、自分への挨拶にはなるよ。さかしまに (1981年)作者: 五木寛之出版社/メ…
行き当たりばったりの流儀? 気取るなよ、その範囲でしかないもの。 綿密な計画が破綻し、ダイナミズムが生まれる場合もある。 といいつつ、とどのつまりは、行き当たりばったりでしかない? 「そうだわなあ…」
被害者が損をするものだ。 例えば運転中、他の自動車にぶつけられれば、持ち出すこともある。 が、損だけで済ませられる問題ではない。 時間を奪われ、痛手さえ負うからだ。 生きていたからよかったものの――。
常識など糞くらえである。 が、中には単にない輩も。 子には迷惑をかけたくない。 かけてしまうものだとしても。 人生は遠い、まだ。 そう、まだまだ遠い。 こんなに、自分の身近にあるのに、どうしたわけか。
老いれば片付けもままならなくなる。 驚くべき事態と言える風景。 病の様相と言えば、軽蔑されるだろう。 が、ゴミ屋敷の中を視てごらん。 ゴミ箱さえがゴミとなる場所で、わたしもまた捨てられているのだろう。