2015-05-01から1ヶ月間の記事一覧
田中美津氏は記している。 「自分を笑える人とだったら繋がっていける」 またもや、「そうだよ、そうなんだよな」と啓発された。 自らを分けられる人だものなと。 何より開かれた関係に向かう人を想うのだった。
捨てられるコピー用紙の裏面で作ったメモ帳。 パラパラとやると、こうあった。 系統発生、詩歌、河豚。 今や意味不明だが、降りてくることがあり、捕まっていたのだろう。 しばし酔筆と遊んで、メモ帳を閉じた。
違和が長い間、指標だった。 が、何やら贅沢な気配も。 数える、指を1本いっぽん折って、数えるのだ。 あれからもう、どれほど経ったのかと。 悪夢に立ち向かえてはいないし、そも、逃げ切れてさえいやしない。
満員電車の中、案の定、子が泣き出す。 母親はあやすが、泣き止む様子はない。 が、舌打ちの気配は皆無。 働く母親の、謙虚で義に満ちた立ち続ける姿。 親子の下車時、静寂が訪れ、子は周囲に、「バイバイ」と。
名所旧跡に興味がわかない。 が、大切だとは知ってはいる。 とはいえ、積極的に出向かないのは、交感のない展示物でしかないから? 今ここが、たえず名所旧跡になっていくこと。 生きていくのだ、ライブなのだ。
静かに木を見詰めるときがある。 木肌を、枝ぶりを、あるいは苔を。 その内側を想像しながら。 生長、腐敗、その同時多発――。 まだ視えない明日も感じようとしながら、1本の木の全体を見詰めているのだった。
うっすらと汗をかき、街中を歩いていた。 いくつもの言葉がやって来る。 どうしたわけか、数え切れないほど。 が、ひと言へ向かっていた。 生きていこう、そのひと言へ、にじり寄っていこうとしていたのである。
ごらん、あそこを。 大丈夫だと言われていた頑丈なものが崩れていくよ。 視ろよ、そこを。 無料だった水や土にも値札がつけられた。 感じなきゃあな、ここの底なし沼が急速に拡がり、視界が狭まっていく日々を。
障がいが個性? 一般化した場所に個性はあるのか。 1人ひとりには平凡な非凡さ、非凡な日常。 関係が作るデキモノの如き生体反応も。 椅子から立ち上がる姿形からも、かけがえのない違う唄が聴こえて来るんだ。
理不尽な死。 が、死そのものが理不尽なのだと想われるときも。 頑丈な人でも崩れてしまうもの。 あきらめるしかないことは、あきらめる、いや、あきらめようとする。 今もなお、その都度の初心者でしかないのだ。
山の中、特に愛でられることもなく、ひっそりと佇む花。 何故、咲くのだろう。 陽射しや土、水からの伝言? 耳のみならず、身心全体も、ひっそりと花に預けてみる。 不思議な言葉がいつか聴こえるといいのだが。
有名ではない、よく見かける1本の木の前へ立つ。 長く生きてきた老木。 涙が出て来そうになる。 ただただ立ち続ける木が泣いていたからだ。 「登ってくる者がいなくなってしまった」と話しかけられたのである。
見慣れたものに囲まれた暮らし。 が、北極ともつながっているのではあった。 そればかりではない、太古の海や吠える恐竜とも。 そう感得したところで、周囲を眺めてみる。 胸に迫る風も吹き始めて来るのだった。
話を聴く。 負担をかけない繊細さ、そうして嫌味でない知の横溢、何より面長のきれいな顔立ち。 美しい髪は、温かい場所へ流れていくかのよう。 「恋しそうだな」と。 一瞬で何もかも失ったが、彼は立っていた。
小道が好きだ。 何故なのだろう? 威圧感がなくて、征服しようという無意識も働き出さないから? それにしても、覚え切れない自然の存在様式、自然という存在。 小道を歩き続ける日々が今のヴィジョン、快汗だ。
「えっ?」 低山を下りたところだった。 滝のかたわらにシートを敷いて寛ぐ2人。 怪しげな健康法とは縁遠い気持ちよさが周囲に滲む、砂埃など感じられない快適な場所。 大の字で寝れば、そりゃあ気持ちいいさ。
土の上に立つ。 「今夜はここで眠るのだ」 テントを設営し終えたら、湯を沸かして熱いコーヒーを。 そうして、束の間、地べたで過ごす身心へと転化していくのである。 月が出るまで、すべきことを愉しみながら。
夜遅く川原に。 簡易な音響セットで唄を流し始めた。 足もとには焚き火、手もとには酒。 大音量にしたが、少し離れただけで、もう聴こえない。 川の音が沈黙を誘い、真っ暗闇が唄を体内から発生させるのだった。
音が、演奏を通じて音楽になる瞬間が。 その瞬間の束。 ジャンルには、ほぼこだわらない。 演歌は、相変わらず苦手なのだが。 音楽が、音楽にたえず成っていく瞬間の束を浴び、身心に注入していきたいのだった。
聴衆を拒絶する音楽が流れて来た。 が、音楽である限り、ついに拒否はできない。 空気を伝わって、振動が届いてしまうのである。 切断という出方の渦。 その表明にふと、親近感を覚え、身を任せていくのだった。
爺さんが丸太の上にひょいと乗る。 歩いてみたり、転がしてみたり、跳んでみたり。 ただし、確かめながら、少しずつ。 「精が出ますね」と声をかければ、「いやあ、リハビリだよ」。 嘘だね、上機嫌だよ、顔も。
バスの中、2人の若い男たちが話している。 無視しようにも、双方、声が甲高い。 しかも、互いに自慢話を。 背の低いほうが言う、「でもさ、あいつ、8万の家賃とか言っていたが、すげえな」。 ふいに親しげに思える。
「やはり呑まれてはダメだな」と痛感を。 アルコールの話ではない。 絶望して当然の事態である。 が、状況から、でき得る限り身を剥がすことが大切な局面も。 状況に自分という状況を同化させないためにである。
葬儀後、寝転がっていた。 母は言う、「あのとき、お父さん、寂しがっていたよ」。 1人暮らしを始めたときのことだった。 そうして今、父母が逝った場所にはまだ行かぬと。 「そのほうが寂しくはないだろう?」
悪口の対象者は、数え切れないほど。 利害がなければ、悪人には見えないのだが。 罵倒のされ方を身内が聴いたら怒るはずだ。 いや、悲しむ? 笑うようになるには、相手の行動原則を知り、理解できたときからだ。
生きるとは、今、否応もなく生きているということ。 生きるとは刻々と老いていくことでもある。 生きるとは病むこと、死ぬこと。 以上が同時に起きたりする、生――。 死んでしまえば、死ぬことはもうできない。
難病に侵された彼が言う。 「想像していたが、実際に告知されると、その前後のことは何も覚えていない」と。 今はお金が必要ということだ。 が、働くことはかなわない。 死体になる過程でも大切なのは、お金だ。
必ずやって来る、ヒリヒリとした孤独。 夏だろうが、直接的な寒さにもやられるだろう。 疑わしき善意や、貧しい沈黙、けち臭い微笑に囲まれて。 逃げ出すわけにはいかない。 死体になることは避けられないのだ。
彼は言う、「がんでした」。 結果、「何も考えられなくて」と。 病院の広いテーブルを前に首肯するしかない。 考えてはいないが、考えないということでもない。 ただただ考えることができないという場所にいた。
美しい唄へ向かっていく。 たまにはウイスキーを少しだけ。 楽器が鳴り出せば張り詰めていく、溶けていこうと。 声が響いて、狭い場所は拡張を。 美しい唄なのではなく、唄の美しさが、「もう1杯」と言わせる。