2011-09-01から1ヶ月間の記事一覧
相対主義の干からびた諦めと、垂直・排他的な直情性の狭間。 今も自己責任に自己決定? 聞こえはいいが、戯れ言さ。 そも、水漏れの船底で右往左往の中、甲板には付着物というじゃあないか。 刻一刻の合掌――。
冬の朝なら演歌よりボサノバ、夏の午後なら山肌より線路。 ただ、好みは変わる、ふいに変わる。 言葉の由来を想像していると秋が体内に入ってきた、体内で秋が芽生えもした。 境界線の皮膚が跳ねた、跳ねている。
心とは何かをついに語らず、気持ちばかりを訴えることはしない。 必要ならば、相性が合わない奴とでも手を組むことが求められている。 憎悪を抱え込むよりましだもの。 たまには、早朝から、ど〜んと食べていくか。
お前への願い? 実に簡単だよ。 呼吸の深くて豊かな世界を味わう人々と、少しでいい、元気で愉快に暮らすことさ。 それ以外? 苦しめるつもりは微塵もないが、元気で愉快というだけでも存外、難しいことなんだ。
死んだ生命を皿に盛りながら、ふと。 安全なのに不安なら、まず身心のたて直し。 危険なのに安心しているのなら、ときに罪にもなる。 現実は、危険で不安だったのだ。 今も安全ゆえの安心こそを希求してゆく。
肴には決して箸をつけない。 だが、注げば即、杯はあける、何もなかったかの如く。 注ぐ、杯をあける、注ぐ、杯をグイとあける。 問う人が、問われれば徹底的にどこまでも応じる姿勢を保った夜に、今も学ぶ。 合掌
ヴィジョンを開示しない単なる否定の言説。 死にゆく方にも臭い息を吐きつける? 寂寞。 故郷ではない場所にも降り注ぐ月光はいいね、とってもさ。 誰もが、暗闇を照らす輝きを気軽に招くことができるだなんて。
「巧みに煽る人は冷静だな」と感服を。 「その気になる由縁か」 ただ、人生論同様、煽動だけで包括はできない。 そも、例外こそ王道という事態も──。 とりわけ、非常時には1人ひとりが全体を生きる主流なのだ。
「静かで穏やか、仲のよい町が一瞬でズタズタに」 そう呟く人に応じ、別の方が、「非常時が日常化」と。 ついに、「学び続けていきます」と放つ女性。 言葉のリレーは受容の対象ではなく、貫かれる事態であった。
善の生産はできない、それが真実だとでも? なあに、底意地の悪い心の吐瀉物としての世迷い言に力はないさ。 失うだけ失い、ふと見上げた際の傷口の如き空よ、聴け。 人類史では喰えないことが当たり前なのだと。
心変わりは、器の身体のたえずの変化同様、当然のこと。 問題は変化の内実、どこへ向かうのかにある。 思想が人を作るのではない、為政者が言葉を丸め込む道具としてきただけだ。 直視し目を潰した隣人とも歩く。
喜ばしいぜ、砂埃が舞い始めたようで。 怒り心頭さ、先を示さない御託ばかり並べられて。 哀しくてどうしようもないよな、涙を拭う暇もない惨劇続き。 楽しいよ、一緒に歩けば、隣から呼吸が響いてくるのだもの。
あり金をはたいた後で覚えのない追加料金の請求か。 まだまだ身を削るしかない? そうした折、木陰で湯を沸かし、お茶を入れる夫婦と出逢う。 一口含み、微笑み合う手と手にはスコップの痕。 美しく汚れていた。
お前と自転車で走っていると、皆が追い抜いていくよ。 逆に面白いさ。 いろいろな背中の表情を視ることが出来るもの。 変哲もない道が広場になるんだね。 身心の脚力がつくよ、抜かれても問題は何もないんだと。
頼る気持ちさえ持てぬ日々。 ぬるい絆の排他性が村八分を生む。 とはいえ、なし崩しの状況下、絶望からも疎外され、絆に頼るしかない場面が確かにある。 為政者に都合のよい分断の再生産はもう勘弁だ、ごめんだ。
1人殺せば犯罪、闘いで大量の人々を殺戮すれば勲章。 「もっと的確な言葉があったな」 昼休み、公園でシートを敷いて小さく大の字を描き、空を眺めた。 「諺とは言葉の技か」 秋空の清々しい空虚の下、静かだ。
吸う、なめる、頬張る、かじる、噛む――。 とにかく、食べてきた。 美味しい食事は、人と人とを結びつけていく。 ただ、今も分からない生命をいただく文脈。 今日も、食卓には生き物への贖罪意識が潜む、滲む。
知人から野菜が届く。 「武器を持たせてはまずい」と考えていたときに。 言葉は添えられていなかった、嬉しかった。 土を落としただけで、塩や味噌を使わずに頬張る。 南の安穏な味が身心の奥へとたどり着く。
マスコミのすべての記事はパブリシティー化していく。 書かないことが大切なときもある? 問題は、末期症状でも暮らしは続いていくということだ。 ふと思う、命は重い軽いではない、計測できない拡がりなのだと。
1杯ひっかけるか。おっ、勢いよく呑むなあ。 しかし、何だなあ…、まずは手のひら、合わせなきゃ。 奴さんたち、今日、ここに降りてきてくれたんだな、目の前に。 世界を祝福してゆくのは、おれたちの仕事だな。
歩いてごらん、面白いよ。 笑っちゃう? そうだね。 お前と足の爪に顔を描いたが、歩くと交互に5つずつの顔が見ているよう。 手の爪にも描くとどうかな。 見にくい? それなら脛に描いちゃえ、描いちゃおう。
仕事が一段落、次の仕込みに取り掛かる手前の夕暮れのこと。 「自分の外側に入る・内側に出ていく」 そうした類の言葉が手元にあった。 「ヴィジョンの希求自体、まず手放さないでおくか」と緩く反芻すれば、月。
善人でも悪さをすれば悪人、悪人でも善行を積めば善人。 何をどう生産するかで人間は決まると、マルクスは人を固定して捉えなかったという。 ともあれ、今や何をどう消費するかで決まる? いや、善の生産の1点。
初めて声を発した人の冒険を思う。 喉が声を出したのではない。 想いが音となり声となって、喉の存在を明らかにしたのだ。 始まりから、身心を含めた関係性へと向かっていた? 古に直結している今の暮らし――。
ほっほっほでなくぼっぼっぼでもなく、やはりぽっぽっぽだなと呑気な朝。 が、権力への憤怒は断固支持、妬みによるものでさえ。 喜怒哀楽の取り扱いに留意もしない。 萎びた事例は汚染された砂だ、数え切れない。
制度としての表現の酷さ。 表現としての制度よりタチはいいが。 ただ、一言もなく乱入する広告の如く、表現は今も制度に奉仕するばかり。 わたしは少しでもいい、明日へとつながる物語・コト語りと出逢ってゆく。
把握しきれない被害をまき散らかし、嘘八百を並べ立てられたらな。 しかも、人々の金をゴッソリと持っていく。 手が届く場所なら、張り倒して当然。 夜、直接性を想起したわたしは、わたしと響き合うことを試す。
美しく生ききるだなんて、花でさえ叶わぬこと。 ただ、熱望は倒れても、生命が息づいていることは忘れないことだよ。 日々、足もとの野の花を感じてゆくんだ。 胸にふっと、光明が差し込む瞬間があるはずだから。
だらだらと話すことも含めて内容。 いいと思うが、おれには縁遠かった。 そうした折、公衆トイレの「一歩前へ」と書かれた貼り紙と再会。 「これなら、よく分かるな」 おれはおれの単純さと、ひどく相性がいい。
手がけた仕事の注文がきたとき、思わず、「えっ!?」と。 喜んでいいのかどうしたものか、逡巡を。 電話口に届く被災地からの大きな声。 わたしは、スタッフたちの目の届かぬ場所に逃れ隠れた。 嬉し涙を拭うため。