2018-10-01から1ヶ月間の記事一覧
「お前は弱い、代わりはいくらでもいる」 確かに、賃労働とはそうしたものなのだ。 今年今月今日だけ、家族友達、そうして自分だけ。 しかも、お金だけか。 が、問題は、弱くて代わりがいても働けることなのだ。
格差を調査? いや、徹底的に審査しないといけない事態だ。 情報もまた連鎖していくが、操作はないのか。 人と人とが、交差していくには、上下があっては健康と言えないだろう。 誰もが捜査するのは息苦しいが。
熱いお茶をゆっくり飲んでいた。 感じることや考えること、あるいはヴィジョンへ向かうこともない時勢に思い当たる。 情や知、意志も消えているのだった。 残されたお茶を一気に飲み干して、もう一杯飲むことに。
安酒は、貧乏人の憂さを晴らす格好の娯楽。 そう想ってきた。 が、安酒を呑めるだけでも、幸運だったのである。 年貢の取りたてには気が滅入る、いや、やばい。 後はやはり、クスリ指でも舐めて健康になるかあ?
亡命者の気分でいた。 が、実際は捕虜だったのかと。 近寄らない、いざとなれば逃げればいいと感じる部分もあった。 が、無理だ、捕虜だもの。 今の為政者から視えない場所にいても、制度には捕まっているのだ。
沈潜することは少なくなった。 とはいえ、ときにパズルを解くかのようなときも。 自分で自分に、自白を強要するときだ。 「本当のところさ、どうなんだよ、お前自身はさ」 答は出ないが、それもまた答ではある。
同世代で出る話は病や衰え、要は老いのこと。 例えば脚力の衰退。 「脚を大きく開いて歩けなくなったよね」と彼。 「頭は昔のまま、身体だけ置き去りっていうかさ」とも。 切実な情報交換を工夫の源にしていく。
「大事にして欲しい」という想いがそこかしこから。 大事にされていないから大事にできない事例も。 大事にすればいいのだ。 まずは自分のことを、そうして周囲の人々を。 結果、胸も広がっていくかも知れない。
阿呆の辞書に、反省という文字はない。 いいや、「辞書が間違っている」と言い出しかねないのである。 そもそも、辞書がないのかも知れないと、ふと。 そうでなければ、反省の1つしても、おかしくはないだろう。
アメリカは資本家に依拠している。 ロシアは今でも党。 中国は、その両方のようにも視えてくる。 そうして、この領土は? 役人の天国、極楽、理想郷。 今や死ぬまで、いや、死んでも働き、年貢を納めろと――。
AIが世界を変える? それはそうなのだろうが。 そも、保育士や外科医、作業療法士などのようにライブに適応できる? 何より雑談ができるのかなあ。 あそこで陽射しに当たる婆さん爺さんや走り回る子どもらと。
殺人を快として感じない予防策を希求している。 文化文明を進化進歩させてきた根源には好奇心が。 その根底には実は、新たなものを創出しようとする殺意もまた滲んでいるのだが。 「ラブ&ピース」と呟いてみる。
忙しい。 が、「エスカレータを歩くほどには忙しくはないよな」と。 実は歩くことによって、気持ちを疎外、一段と忙しくしているのではと。 実際、忙しいのだとしても。 スマホも視ずに大人しく運ばれていこう。
あの大陸から攻め込まれるという。 しかも、半島からはミサイルが飛んで来るとも言う。 ただ、問いたいことが。 9月11日を抱えた国に、長くながく統治されてきたのではないかと。 そちらのほうはどうなのかと。
とどのつまり、お金のことだらけ。 そうして、跋扈する嘘・うそ・ウソ。 でもさ、生きる悦びにつながる真実と、少しでも出逢えることがあるよ。 だからさ、いつも、今の向こう側を視ていくんだ。 ほぼ無料だよ。
苦しみはいずれ去るのだろう。 が、そのことをもってして慰めとはならない。 たった今、苦しんでいることが問題なのだから。 しかもだ、苦しんでいる間に失ったことは、取り戻せないのである。 そこからなのだ。
公園はいい。 節約するしかない日々に弁当を広げられる。 人がいれば高齢者も呑気に昼寝を。 走ったり、歩いたり、座り込んだりも。 本を開くこともできる。 何より、開かれているよさを教えてくれるのだった。
いくつになっても訓練は大切である。 いや、加齢とともに重要になっていく。 身に着けた奥義があったとしても。 いや、それであるなら、なおのこと訓練は積み重ねるべきだろう。 身から剥がれ落ちないためにも。
医師は憐憫の情から手当てをするのではない。 人助けが労働の内実なのだ。 感情につかまっては見誤る場合も。 治療が、生きがいとなるときもあるだろう。 が、患者さんの自然治癒力を醸成する労働者なのである。
ためになったり、躾に結びついたり。 あるいはまた、感動できたり、何より正しかったりするもの。 「でもなあ」 そんなことよりもまずは、愉しみをと。 結果、快適な感覚になれて、勉強だってしかねないものだ。
どこで読んだのだろう。 「とにかく社員の笑顔を視たいだけです」 そう発言した方がいる。 「そのためには嘘はつかず、できるだけ争わず、人様に迷惑をかけたくない」 想わず、「いいねえ、それが基本だよな」。
失うわけにはいかない労働がある。 漁業に農業、狩猟だ。 どれもみな命の死と関係しているが。 とにもかくにも食べないといけないのである。 食べずに生きているという方もいるようだが、実際はどうなのだろう。
圧倒的な量で公開され続ける写真。 「今や写真は無視されるためにある」と喝破した写真家も。 が、珠玉の写真もある。 色や形、線などの個々もだが、全体で迫ってくる写真も。 忘却に逃げ込むわけにはいかない。
2人にふさわしい唄。 レンタル屋には置いてないよ。 そも、売られていないものね。 それにさ、今この瞬間の笑顔が、すでにして唄なんだよな。 やはりさ、流行り唄など気にせず、自分たちで作っていけばいいさ。
取材という方法を信じない。 話を盛る人や平気で嘘をつく人もいるのである。 そも、初対面の輩にいともたやすく、事実を言うものかどうか。 とはいえ、取材は大切だ。 要は、どう見抜いていくかにかかっている。
彼女は苦笑しながら言った。 「それはもう、魅力があったわよ」 指のしなやかさに眼が止まったそうだ。 「口を視ていいなあ、きれいだなと」 そうして、「何より声が響いてきたのよ」と。 墓参は終えたという。
当たり前の1日が大切と言われるようになった。 が、ふと、「当たり前とは?」と。 食べて出し、眠ること? そうだ、そうした生命の基本がまず保証されないと。 結果、幸福、いや、幸運への半歩を味わえるのだ。
居丈高で何かいいことでもあるのだろうか。 そんなバカな。 むしろ、物腰が低い人に自信の現れを感受できるものだ。 とはいえ、喰わせ者という場合も多い。 物腰の柔らかさこそ、深い呼吸の体現者ではないのか。
娘と電車に乗れば、話し始めるのだろう。 話が佳境に入ったとする。 そのとき、お年寄りが目の前に来たら、娘は席を譲るかな。 自然に立つか、どうか――。 わたしにはわざと席を譲らないときもあるのだろうが。
死んだ親父とお袋が、向こうからやって来たら? 「よっ」か、「元気だぜ」か、「何とかね」か。 いや、その前に向こうから、「その不景気な顔、どした?」と言うのだろうな。 分かっているさ、家族だったものな。