2018-06-01から1ヶ月間の記事一覧
今は亡き体内の父母は言う。 「もっと生きろ」 親たちもまた、きっと生きたいのだろう。 が、現実はどうかと言えば、視界不良、居場所は消えていくばかり。 だからこそ、自らの声がする、「生きろ、静かに」と。
とっとと走り出せないな。 足腰が弱くなったからだが、それだけでもないようなのだ。 走ることが必要なくなったのである。 いざとなれば、爆撃されても逃げられないから、逃げない? 見極めることさえできずに。
人を利用する手合いがいる。 しかも、平気なのだ。 ためらいもなく、自らに憤ることもなく。 人の性か、関係か、はたまた当たり前なのか。 それはまあいい、出逢いたくはない、呑み込まれたくはないだけなのだ。
日本全体が引きこもりのようだ。 事実なら、引きこもりは弾き出されて、可視化されてしまい、明日への指針に? 必ずしも冗談とは言えないようだ。 病としての引きこもりは置いておくが。 それにしてもの日々だ。
超がつき、化が取れた超高齢社会という。 街中で実感することが多々ある。 電車に乗ったときの違和感は、優先席を逆転させ、元気な方用にしたほうがいいからだ。 ともあれ、高齢者の日々の席は奪われ続けている。
現実では、手を抜きたくても抜けないときがある。 せかされて、早くも、速くもできないときさえあるのだった。 「想い通りにはいかないものだよなあ」 嘆いても仕方なし。 されど、嘆かなくては視えないことも。
周辺の音を聴く、聴こうとしながら。 実は、静かな場所を求めて。 もはや核心を覚えていないと気づく、どうしたって。 が、あいつらとは違う。 嘘をつくのはごまかすためだが、そんな必要は微塵もないのだから。
ともあれ、このままいけば、瓦解。 いや、すでに壊れている? 壊れてもこわれても、なお壊れていくのだ。 泥舟というより、紙舟以下、水舟に乗り込んでいるのか。 星さえ視えない夜に、とりあえず公園で歩いた。
望んでいることは、自分にとって実際に必要なのか? 希望はないより、あったほうがいい。 とはいえ、なければないで、一向に構わない。 実は、望むこと自体、不必要なときも。 深呼吸できることを忘れてはなあ。
体調が戻ったとき、声が出るだけで嬉しい。 声を出すだけで、気分がよくなっていくときもあるのだった。 折角だ、少しの間だけでも愉しいことを話したり、歌いたい。 場所は緑溢れる場所、時間はいつでもいいな。
舌打ちしたくなるとはこのことかと。 ろくでもない輩がいるのだ。 痛むことなく嘘を吐き、人の想いなど感じようともせず、自分だけ。 驚くなかれ、この領土を守ろうというのである。 もはや国中がサイコパス化?
いたずらに拡大再生産される不安・恐怖を煽る商売情報。 一線を画すことが問われている。 とはいえ、何が当たるか分からないことも確かなのではあったが。 今や、情報と接すること自体、博打のようなものである。
「気さくと、なれなれしさは違うよなあ」 実際、気さくな素振りで、食わせ者が。 なれなれしくやって来て、存外、真面目という場合もある。 人は視かけどころか、態度もまた、当てにならないときがあるのだった。
「不安? 役に立つのかね」という映画の中の台詞。 が、不安も持たず人の役に立つのかなと。 いついかなるときでも、落ち着いている方もいるという。 だが、「落ち着かないのは不自由の証」と気づけないのでは?
酒の力を借りるのは分かる。 が、実際、どうなのかなと。 いつまでも続かないし、そも、翌日には忘れていたりして。 第一、伝えるべき本音があるのかどうか。 あるなら、すでに伝えているのではとも感じている。
もはや、どのような謝罪をしても心には響かないだろう。 届きはしないのだから。 せめてだ、理解できる説明をすべきだ。 納得はできなくても。 「あ〜に言ってんだか」の日々に、呆れてもあきれても驚いている。
爽やかでニコニコしている小賢しい手合い。 平気で土下座さえしかねない抜け目のない輩もいる。 優秀な御仁は、とにもかくにも油断ならないものだが、ときの首相はどうだか。 とにもかくにも、ああ、面倒だ面倒。
アメリカの高校での銃弾。 本来、起きてはいけない場所での殺人だ。 が、戦地だからといって、いいわけではない、いいはずがない。 戦地はかつて、暮らしの場所だったのだから。 合掌の日々が、相変わらず続く。
肌寒い日があった。 「いやはや、窓を閉めるか」 年を取ると、若いときに比べて抵抗力も落ちてしまい、気候に敏感になる? 鈍くなって敏感とは、これいかに。 何だか面白いことになってきたと言い聞かせている。
できるだけ嘘をつかないで何とかやってこられたという。 彼に伝えた、「幸いだな」。 すると、「どうかな」と。 「だって損ばかりだし」 が、満更でもないはずなのは、仲間の静かな笑顔を知っているからである。
リズムもまた視えない。 が、視えるもの、心をともなった身体を、動かしていくのだった。 天候に左右される日々に、視えないものが垣間視せてくれるもの。 自由と呟いてみる。 解放と言っていい場合もあるのだ。
自分なりの道? 気張っていて、「どうだかね」と感じた。 今や、そこかしこに信号機が、信号機のようなものが。 今日という新しい日を迎えられた新人として、呼吸していくしかないのだ。 今日があるかのように。
言論の自由? 大昔、いつもと同じ間抜けな顔をしてテレビを視ていたら、「選挙後に必ず人は死ぬ」と婦人参政権を導いた方が。 いざとなれば、上下左右から自由に銃弾が飛んでくる。 だから言論に自由をと体感を。
わたしも簡単に騙されている。 先方が巧み、わたしが浅学ということもあるだろう。 そも、疑っていたら先に読み進められない現実もあるのだ。 とはいえ、引用・出典元がなければ、読了後、疑うようにしてはいる。
負けないようにしていけばいい。 「狼は生きろ、豚は死ね」と書き豚肉代を稼いで、食べていたのでは洒落にならない。 病気の予防しても、いずれ死ぬ。 とはいえ、虚無に浸らず、負けないよう編んでいくのだった。
「関係が悪くなってもいいから、金だけは持って来い」と、どやす輩。 大企業や官僚、ヤクザや体育会でもないのに。 単なる中小の会社で何を言っているんだか。 肝心のものを提供できない輩に実は多いけれどもね。
強要されてもどうかな、やらないんじゃないのかな。 要は、『北風と太陽』。 もっとも今や、茶坊主ばかりお出ましだけれど。 そも、共感できるなら、からだが自然と動いていくはずだよ。 そうだろう、違うかい?
まずは真実ではなく、事実の開示だよ。 で、ようやく議論を開始さ。 話し合いの間は、多様な意見を尊重するに限るよ。 とはいえ、さまざまな意見が出ないほど萎縮しちゃってさ。 忖度なんてお呼びではないのに。
妄想と言えば妄想でしかないだろう。 目の前にあることも含めて? そうだな、そうとも言えるな。 眠りは死の予行演習とも言うが、記憶喪失の実体験でもある。 とはいえ、眠りの中でも妄想を生きているのだった。
とどのつまりは、日々刻々と感じて想っている。 深く体感できるのは、言葉があるからでもある。 言葉を覚えてよかったのだ。 とはいえ、いつもいつも立派な言葉だけで体感しているわけではないことは、忘れまい。