2009-03-01から1ヶ月間の記事一覧
変わらぬことの過激さ/暮らしイコール遊びという夢/集中できるものさえあれば、やっていける/平和という次の戦争へのアクセント?/平和国家という嘘。国家が平和なわけないさ/愛こそすべって/声自体の持つ力/
拝啓 総理大臣殿 高齢者問題の脱出口がたった1つ見えただけで、一息つけるのですが/情報乞食/冬眠から覚めた亀が寄って来ただけでうれしいんだもの、ましてや…/知り合いたい、海底の住人たちと/名案の明暗/
人柄という柄物/立てこもり、引きこもり、てんこ盛り/「すべてを公然とせよ」という言葉は死語ではないはずだ/人々は賞とは縁のない、祝福の暮らしを送る/体操教室って何のお仕置き?/生と死とは肉親ではない/
早期発見とは、今、飲み込んだ食品添加物を自覚するところから/うざいという言葉が好き/受容の種を蒔くと、ごく稀に平和の花が咲く/小さな躓きを繰り返しては睨み続けていく/風邪を引き片鼻より出でる紫煙かな/
いい年をした学ばないオヤジ、 行き場のない思いを抱え、 「それでもトイレがあるさ」と、 どこに勢いが隠されていたのか、 幾度も駆け込むなり。 思いはただ1つ、「ありがてえ」
感じようとする。薬指の指紋・曲がり具合・疲労度を。 感覚をつかもうとする。背中に目があり、後ろ向きで歩けるような。 軽く目を閉じ、片足で立つ。バランスに集中して。 この3つを試した朝に日差し。
気分は概ね散文だから、 断言の垂直的な狭量さに辟易とはするものの、 視界がひろがることの魅力は手放せず、 結構、何気なく啜るお茶。 あっ、カッポレカッポレ。
寒くて暖かい春の風の中、 他者の痛みは耐えられるが、 人が倒れそうなときは手を差し伸べもする。 風もまた、風に吹かれている。
ストーリーやト書きなどもなく、 会話で進行していく現実。
喜ばしくて泣くし、怒っても泣く。 哀しくて泣くし、楽しくても泣く。 喜怒哀楽、それぞれの局面で笑いもする。 泣きつつ笑うし、笑いつつ泣きもする。 単線ではない身心の新陳代謝よ。
「終電を逃して使うようなことは、避けないと…」 そう思いつつ、仕事鞄からシートを取り出し、 昼間の公園で、靴を脱いで横になる。 挙げ句、「いい、実に」と感じつつ、 うっすらと昼寝。 よさは倍加している。
梅に欅、桜に檜──。 久しぶりに多くの木々と再会しつつも、 結局はたった1本の木に引き込まれ、 身心の節々が伸びていく、 「親戚よ」と語りかけていく。
明るい場所ばかりを見ていて、暗がりに目をやると、視界がきかない。 その逆もまた事実なり。 いっそ、朝から脳天快汗歩行で、「よっしゃ」の希望・絶望チャンポンさ。 ヤッホー、ホトゥラララな春へ、いざ。
今も、リストラから戦争にいたるまで、 利益のために行われているが、 当の利益を享受すべき人々が減少する一方である。 何と効率の悪い、 いや効率さえ不在の経済行為か。
わが家ではときどき、 食卓の席替えをする。 特に意味はないのだけれど。
「言葉と、その発言者自身の暮らしとは必ずしも一致しない」 そう思う春の夕べ、急ぐは家路、恋しきは食卓。
雨上がりの帰路に、何組もの抱き合うカップル。そこだけ、きれいで、ぼんやりと熱い、星のスポットライトがあたったかのよう。身体側からも春が来訪したのかな。春と春、そして春とが遭遇した道に、冷風も遠慮気味。
出どころはそこら、銭には見放され、知識・知恵なんぞあるわけがなく、品格とも無縁。ただよ、お互い、1度は祝福され、この世にやって来たんだ。生きていくのに十分な理由だろうに。まだ昼だけんど、どや、も1杯。
麗しく魅惑的なはずなのに、 正視できない内臓と、 1日のうちのどこかで、 たとえ束の間でも、 必ず語り合う。
いっつも、しかめっ面なんて、バッカみたい。 「みんなみんな生きているんだ、しわ寄せなんだ」とでも歌って、 憂さを晴らせばいいのに。 みんなみんな、人の発情・欲情が起源だってこと、 忘れちゃったのかな。
私が死んだら、「この死体、落書き自由」とすることが、家族との軽い約束。花火をくくりつけて遊んでもいいし、何なら解剖ごっこもどうぞ。死は、死からの自由、自由からの解放、解放からの自由。楽しき夕べこそを。
春の日差しもまた等しく降り注ぎ、 濃淡の差はあれど、 すべての人々を、 美しい、くっきりとした影に変えて、 路上に映し出す。
朝晩、 必ずすれ違う 馴染みの1本の老木にも、 待望の春。
夢の生け贄、本質幻想、生きがい市場主義──。 そうした在り様とはほど遠い場所に暮らしは息づき、 暮らしの中でゆっくり静かに心ゆくまで呼吸を重ねることが、 実は夢、本質、生きがい。
お天道様、 休日はせめて、 今日のように、 風もなく穏やかで、 晴れて暖かいと、 助かります。
千年前の血族に、「命を大切にしています」、 千年後の親族に、「命を大切にしてください」、 そう言えるように暮らすこともまた、 今、生存する人々との、 生き延びる道を開示してくれるのだろう。
尋ねたいことがある死者たちもまた、 今に生きている。 そう感じられたとき、 すべての死者たちもまた、 現在に生きていると思えたのだった。
部屋にはまだ光がさし込まぬ早朝、 通勤者が乗る自転車から放たれた光の帯と、 朝日の光の帯とが交差する。 鋭くも柔らかい光の剣が舞う一瞬の映画。 朝から、名残惜しき。
きみは、「自分とは何か」と切実に問うた。ぼくは、「分からない自分が自分を問えるのか」と、ふと思う。「ほら、もう春だ。風は冷たいが、キラキラ輝き始めたよ。今は、少しでいい、脱力していようよ」とも。
独立しても自立していない、独立していなくても自立している、独立していなくて自立もしていない、独立して自立もしている。 はて──。 暮らせるのなら、どれでもいいと言えぬのは、暮らしこそ真の問題だから。