2011-01-01から1年間の記事一覧
非常時が日常化して、非日常が疎ましくなった。 汚染物質に暦は関係なし。 古い唄を昔の流儀で歌うことも忘れまい。 故郷としての唄・唄の故郷から、あなたが戦禍と無縁であれと記して、今年最後の手紙としたい。
一般化という行為は個別の意味や可能性、ヴィジョンなどの殺戮と同義である。 おまけに、個体性を個性と勘違いして何が観えようか。 相変わらずの吹きっさらしじゃあないか。 おれは年末の今日もやはり、路上だ。
電車から富士山を観た。 「あっ、そうだった、そうだった」 秋になればうかがえていたはずなのだが、何に憑かれていたというのか。 気づかずに来てしまった不明・不徳。 手をあわせず、それでも拝んでいる身心。
何故だろう、盗み見たのは。 1点に集中していると全身も集中していく。 工夫や来歴、拡がるものに惹かれ始めていた。 因業ではない手の欲情。 それ故、枯れ葉の囁きの如く、「お前が欲しい」と財布を覗き込む。
時に主張したくなる、朝粥の美味しさについてなのだが。 息が詰まり倒れてしまった人々が視界に入った。 単に食べていく人生でいいのだ、食べられるだけで。 孤独に耐えることはしない動物たちを眺め始める――。
生活は不規則、気持ちが規則的なら何とかもつ。 気持ちは不規則、生活が規則的ならやはり何とか。 その文脈と関係なく、手に負えぬ正面衝突の日々。 結果、生活と気持ちは不規則だが、まだまだ、そう、まだまだだ。
野暮用で立ち寄った行政提供の無料相談室。 幾多の疲れた表情が座り込んでいる。 煙突からの贈呈品と縁なく、身捨てる故、実は得られる文脈を失った人々。 今、出口はない、だからこそだ、おれも歩き続けている。
喉の唄は届かない、腹の唄が身心を呼び起こすのだ。 仮に妄想だとしても、腹の唄を歩む、歩み続ける。 落下しても立ち上がり、埃を払って歩み出すだけだ。 今宵は、静寂とともに、腹の唄を舞い、祝福してゆく。
3月11日からの自由、「3月11日からの自由」からの解放。 3月11日なる鎖、3月11日の鎖。 3月11日からの解放、「3月11日からの解放」からの自由。 3月11日なる解放、3月11日の自由。 中止を中止。
「酒池肉林は3日であきるから違った生き方を」だって? ご冗談を。 夕暮れを迎えられる幸、美味しい酒の一口目、ナイーブな通俗、いや、ナイーブという通俗。 理解に止まるだけの総括は、今はどうでもいい――。
簡素な姿勢が一転するときがある。 卑屈な態度が変革の力になるときも。 ただ、他者を単に美化し、欲情の対象にしてしまうのはいただけぬ。 亡き人が育てていたサボテンが今冬も紅い花を見せ、繋がっていく朝。
帰路、どこからかシチューの匂いが漂ってきた。 腹は満たさぬが、温かい贈り物としての闖入物。 冬の疲れを忘れさせてくれ、何より美味しいことが分かった。 わたしも、見ず知らずの食卓の一員になっていたのだ。
おれは、ふざけた軽薄な野郎だが、暗い。 笑ってしまうが、この桎梏を安易に手放しはしない。 腸が弱っているだけなのだとしても、まだ暗くなれる力の存在に感謝している。 いいじゃあないか、何やら痛快なのだ。
電車で高齢者が口を開けて眠るほどには安全だが、詐欺は横行中だ。 日が経つほどに見えてきた領域もある東日本大震災。 革命なる言葉も解禁すべき? いつからか、成功や勝者という文脈が煩わしくなってしまった。
大きな荷物を抱え、ベンチに座り込み、ため息を。 気分は長いこと、すっかりホームレスか。 そう記して、叱責してくるのは、決まって安楽椅子の方々。 身なりは整えていても、実は地続きなんだ、文無し生活とも。
光が差し込めない体内だもの、酒を流し込む。 火照ってくれば陽光と戯れているかのよう。 興味を持つことは大切だが、視線の底の隠れた暴力性は見逃すまい。 生まれ故郷、漆黒の眠りへとふわり、帰ってゆこうか。
今、生きている。 幸運なら来年も暮らしているだろう。 怯える人生が視界にいくつも飛び込む。 汚れた食材が並ぶ中、「餓死よりマシ?」の問い。 記念日にしか寿がなくなった国で、陽射しが物語るものとは――。
彼は言う。「実は逃げ出したいだけ」 根底の、食べられぬ不安・憤り、いや恐怖。 そうして、「闘うのは、孤立も引き受けられそうだから」と。 おれは、「明日の呼吸と連帯しているんだな」と、笑いかける。
聞こえて来る、「今年も残すところ後わずか」という声。 ただ、人生の半分以上を遥かに超えた齢を迎え、「今年も346日以上過ごすことができたな」とも。 そも、今は、今年が来年になっても終わらないかの如し。
一番好きな歌手が、実はたくさんいる。 飛ぶ鳥が空の色に染まるころ、平和な世界はまだ知らないと思い出す? 反戦歌からラブソングまでが求める平和。 多くの歌手が1人の歌手のよう、多くの唄が1つの唄のよう。
月が頬被りしてらあ。 心だけのステップはもう潮時、後、ほんの少しだけ呑もうか。 片付けるのは明後日さ。 そうだ、澄んでいるのに裏切る唄を流そうよ。 そうして倒れていくんだ、「知ったこっちゃないぜ」と。
狭い道を先に譲ったのは高齢者のほうだった。 保母は感謝の会釈を。 その瞬間の妙に気づかず、はしゃぐ子どもたち。 車椅子に乗る婆さんの姿勢を、身心が自然と選び取るまでには、まだまだ季節が巡らねばならぬ。
入口を開ける、中へ入る、重い荷物をまずは置く。 「何処へ座ろう」 暗く疎ましい事実は変えようもないが、意味は必ず変容化できる。 そう感じ、河岸を変えた夜。 座る場所は大切だ、座り続けるなら、なおさら。
武器を持たず、一生を終えたい。 暮らしに潜む武器にまつわる比喩も、すべて放棄できるといいのだが。 表現の幅が狭くなることより、続いてゆく暮らしが大切。 『ツイスト&シャウト』を、身心へ鳴らしてきたよ。
昔、学校へ通っていた。 ただ、生き延びる知恵を身体化できたか。 例えば生命を脅かされ続けた際の、身心とのつき合い方は? 洗顔・食事・排泄・睡眠を丁寧に行い続けた人々が生き抜いた事例は知っているけれど。
時代の最前線は、目立たぬ暮らしの中に息づく。 老化や無縁、貧困や無知。 1歩間違えれば? いいや、1歩正しければ――。 今宵は静けさを取り戻そう。 こもって、自らの脳髄にもジャマされぬ夜を奪取するのだ。
国家がどうにかもっている理由。 今も、「身体が資本」という多くの人々が、なけなしの身銭を切っているからだ。 健康を失えば、待つのは路上か刑務所、あわよくば死? 土を汚した手合いが、アクビさえする折に。
彼女が一瞬、箸を休めた場所は大衆食堂。 食事時、久しぶりに仕事現場で再会、国道を見渡せば、あったのは座した店のみ。 曰く、「いつもは立って食事よ」。 厨房の奥から視線、定食を前に彼女は感涙、手で拭う。
母を求めていた、母乳を与えられる前から、胎内で。 同一と分離、集中と忘却。 母は求めていた、母乳を与える前から、胎外で。 企画やコンセプトなる視点では収納しきれぬ生命。 嫌な雨が降る前には家へ帰ろう。
朝からのシャンパンも悪くないな。 おれはお前たちを抱きしめようとするだろう、強く強く、だが優しく。 少しだけ高揚する音楽を流して、水の如く美味しい食事を少しだけとろうか。 そうして、グッドバイ・バイ!