2012-04-01から1ヶ月間の記事一覧
悲劇を忘れようとする人と、忘れまいとする人と。 おぞましいことが繰り広げられてきた点に変わりはない。 調子のよい言葉と、突出していく言葉とを混同しないことだ。 すかした大人の流儀はもう通用しやしない。
悪意なき言葉もまた、心を蹂躙する契機が一段と増えた。 だからだ、底の想いからしか語るまいと、あらためて決めたのは。 感想や話題、議論は今も遠い。 穏やかな波打ち際で、ふと愕然とすることもあるのだった。
車窓から山々がうかがえた。 悠然、されど闊達な振る舞いの如し。 いわゆる行動には結びつかないが、己が眼前を明るく照らす言葉もあると言いたくなっていた。 今はまだ、吐き気を抱えてでも生きてゆけるだろう。
無論、歴史にイフはない。 ただ、「仏陀・キリスト・ムハンマド等がいなければ?」と考え、存外、試されていた。 救済という血まみれの営み。 平らにしてくれるのは、寄り添う丁寧な暮らしぶりだろうと祈りつつ。
優先席に座る若者は、確かに病気のご様子。 タイムカードを押すとき、軽い死を味わうのか。 怠惰も命懸けの時代。 ただ、多くの人々と心ときめかすことが可能な宗教からは、逃亡だ。 突っ立っているだけでいい。
悪いと分かっていて、してしまうことがある。 注意が逆効果の場合も。 良いと理解していて、できないことがある。 促しが鎖となるときも。 意志が入り込めない事態もある故に、契機を潰す、または開く、これだ。
昔、宮谷一彦氏は描いた。 「喜べ! ついに我が家の米びつを投げ出す時が来た」と。 度肝を抜かれ、首肯していた。 明日なき前夜の様相も呈す折、思い出した言葉だ。 腹へ胸へと、リアルに迫ってくるのだった。
おれたちの口癖が、「もう行かなきゃ」だったときがあるよな。 結果はお笑い種、今のここ。 「生きることによって生じた問題はより生きることによって解決」しないとも知った。 が、なあに、何度でも何度でもだ。
西日差す部屋で、話を聴く。 多くの生命を帰還させてきた方の、「自殺は肯定するところから」との言に唸る。 「今ここの充実が急務」とも。 「まず、ねぎらいの言葉を」との一言に、この国の自死が臭うばかりだ。
「断言で展望は開けぬ」と言い切ろうか。 例えば人生は1度きりという言説。 敗北を受容した者、つまり死者が立ち上がる場合もあるのだ。 1度の人生に畳み込まれた、いくつもの人生。 硬直の泥水は避けてゆく。
大集団が渇望する美談のバトンリレー自体、醜聞。 押しつけが命を蝕む。 そうした折、日々の汚泥から漏れてくる魂の痕跡。 細く曲がりくねっていて小さい声が耳に痛い。 だが、耳を傾ける、澄ます、預けてゆく。
使えなくなった鞄を見つめる。 捨て場へ置き、しばし歩き、振り返った。 静かに眠り始めている。 あらためて、「身心の一部だったな」と。 「起こすことはないか」と言い聞かせ、新しい鞄とともに駅へと向かう。
現代に暮らしていて、近代の音楽に聴き惚れることがある。 中世・近世のそれに惚れぼれとすることも。 ただ、身心を貫くのは古代、いや、有史以前の音色か。 夜空では星々が、親密、かつ密かに語り合っているよ。
身心は生命を走らせる鉄道だ。 加齢で廃線になる場所もあるが、ゆっくりと脚裏を伸ばせば火の列車が走り出す。 湿った導火線に点火できるときさえある。 遠くから訪れる深い呼吸を捕まえ、悦びが走る春を試みる。
旅の途上、移動の果てにしてきたことがある。 ゴロリと横になれる、わたしを呼ぶ青草を探すことだ。 そうして、バラバラになり始めた身心を回収するのだった。 果たして地上の一隅が、わが家と呼べる場所となる。
雨の休日、頃合いを見計らい歩き出す。 大股で歩くだけで、遠くの広い場所へ行けそう。 雨脚は家路を促すが、「まだまだだ」。 公園では湯を沸かし、熱いあついコーヒーを。 今しばらく、空っぽを堪能するのだ。
金銭感覚の基本に“温水プール2時間2百円”がある。 だから今の文庫本を高いと思うことも。 近所のおばちゃんの言葉、「高齢だと5千円も貴重よ」が身にしみる。 金持ちより金持ち臭いほうが嫌、と負け惜しみ。
葬儀のときのこと。 足が痺れて立てず、すっ転んだ喪主。 それを視て笑いを抑えた親族の開きっぱなしの社会の窓。 あれこれの泣き笑いは続き、かくしていつか再会をと約す時間が。 煙が、やはり目にしみる。
『美貌の青空』に対して醜悪な曇天? いや、怪奇な雨だ。 傘がないことも大変だが、今や雨の現実を見たかどうかも切実な緊急課題。 いやいや、今も一緒くたの困難まみれ。 老いの受容も奪っていくじゃあないか。
電車の座席で、短い脚を石原軍団のように伸ばす阿呆。 教養とは身心の縁取りがきれいなこと。 放り出されたとしても、そこがどこかは分かる身心を持つんだ。 視てごらん、来春へ向かう夏がもう、始まり出したよ。
雨の日、画集を濡らしてしまう。 後日、「乾かすか」と窓際に干せば、風が吹いている。 晴天が描かれたページまでめくられていくかどうか、賭けの心持ちに。 「画集そのものを初めて見つめたな」と気づきながら。
胸が塞いだとき、亡きオヤジやオフクロがやって来て踊り始めた。 「どうした?」と。 女の子もいて、「あっ、お前、そこにいたのか」。 よくよく見れば、顔見知りたちも談笑を。 やはり、わたしの笑う番が来た。
桜を愛でたとき、身心は春空も体感していた。 気づけば形を変えている雲もまた。 息を引き取るまで繰り返される呼吸は平静だが、上気するのは何故? 季節の証は変化、桜よ、それでもしばし、人懐っこい春を舞え。
信号無視は当たり前、人を押し倒し座席は分捕り、記念日にしか思い出さない――。 「緊急事態になれば大変なこった」 いや、今ここの緊急事態か。 わたしも子どもたちに伝えるのだろう。 遠くまで行くんだよと。
隣人が倒れそうになれば、手がサッと出る。 そうした身心感覚の醸成が、今も課題か。 朝の電車内で、ファストフードの臭うパンを、冷めたコーヒーで流し込む光景が指し示すもの。 双方、手も足も出ずに倒れ込む?
中年男が慌てて疾走してきた。 が、乗っていた自転車が、置かれた1台の自転車に触れ倒してしまう。 5台がドミノ倒し。 ただ、彼はすべて立て直し手を払う。 時計を冷静に一瞥、続いてランナーとして走り出す。
飛び込む情報に怒り、涙し、何より凍てついてきた。 甘い記憶に淫することもせずに。 束の間の生に穏やかさを望むのは、正気を保つため。 一方、「もう無理だよな」と言い聞かせるのは、新たな出立のためなのだ。
今、贈られて嬉しい物質は何か? 開かれたミニコミだと即答できる。 胸いっぱいの想いで創られた手紙としての日記・日記としての手紙。 まだ自分にも見込みがあると気付かせてくれたことに対し、感謝するだろう。
帰宅時、駅から歩き始めた。 夜空に月が浮かぶが、雲で尻も隠す。 「雨になるのかな」 鞄の中、空の弁当箱が微かに鳴っていた。 その拍子に合わせて歩けばリズムは早まり、階上のわが家からの灯りはもう目前に。
出鱈目な唄をがなって、エッサホイサッサ。 思いつきステップ、素っ頓狂なダンス&ダンス。 実は主役は脇役、脇役こそ主役、ヘイヘイホオ〜ッ。 眉間の皺に気づけばシャッフルシャッフル、パッピプペポオオオッ!