2016-11-01から1ヶ月間の記事一覧
もうすぐお別れのときだ。 彼女は、彼の顔を視てから、その手を取る。 そうして、手を、自分の性器に持って行くのだった。 彼の閉じ続けていた目は一瞬、動いたかのよう。 夜には早い時間帯、居間は静かだった。
自転車で徘徊を。 老夫婦がスマホで写真を撮り合うシーンと出逢う。 明日、いや、今夜、何があろうと今は幸せ。 寒くなる前の赤や黄という贈り物が降り注ぐ。 遠くの山の川の音が一瞬聴こえてきたような感覚に。
石の歩道を歩いているとき、足先が冷たくなる季節だ。 痛いときさえある。 空を仰いでも、暖を取れるわけでもなし。 が、枯れ葉が舞い落ちていれば、温もりを体感できる。 土の匂いを嗅ぐことができるのだった。
今、不機嫌に抗うこと、上機嫌というより単に浮かれている在り様にも。 逆に不機嫌が蔓延する? が、関係は可変的だ。 冬眠中の生物もまた、呼吸を重ねていく。 排他性こそが病、不治の病を助長させる病なのだ。
温水プールでバシャバシャと、父親へ向かう幼子。 泳げたことの喜びが、顔に視て取れた。 わずか1メートルに満たなくとも。 きゃっきゃと。 何より父親に抱きしめられた喜びが、周囲にも伝わってきたのだった。
働いた。 その後、少しは休日を愉しもうと歩き始める。 歩道は日陰だったが、「そうか」と。 陽射しがビルの高いところを照らしていたのだ。 広い場所へ行こう、夕陽は紅く空を焼き、暖かい場所のはずもの――。
パソコン画面上で流れていく、膨大な数の写真。 わたしの写真もまた、その中で流れていく。 特に流れたわけでもない1日だったけれど。 落ち着きどころは、あるのだろうか。 たとえ消えるばかりだったとしても。
一瞬、めまいかと体感し、目覚めた。 家族が何やら騒いでいる。 「あっ、地震だったのか」と気づく。 ひとまず、めまいでないことに安心を。 と同時に、安心できないまま、何がどうしたのか、知ろうとしていた。
昔、シングル盤のレコードを購入した。 そうして、幾度いくども繰り返し、盤を回したものだ。 飽きもせずに聴いていたのである。 唄が体験になり、唄という体験へと。 当時の唄が老い始めた今、口をついて出る。
旅に出る。 期待もあれば、不安も生まれるだろう。 周囲を用意周到に警戒しつつ、晴れやかに挑んでいく心も。 そう想い至り、「えっ?」と。 何だ、周囲も艱難辛苦だらけ、毎日が旅なのではないかと、あんぐり。
立ち止まっているとはいえ、赤の信号は、いずれ変わっていく。 夜明けの来ない夜はないが如く。 しかし、すでに赤信号だらけなのである。 あの土、この砂、その石――。 暗いくらい夜明けを迎えていくのだろう。
商売相手を蹴落とすことは、日常茶飯。 相手が落ちれば、嬉々とする。 「やったね!」の明るい声が木霊して、微笑みさえ。 が、国家レベルで発生すれば? グローバル化の今、企業群は国家を超えて跋扈している。
一生が長いかどうかは分からないが、気づけば老いの道。 偶然か必然かは分からないものの、つながっていきたいと。 となれば、残すものでだろうか。 例えば、水。 美しく、何より美味しい水を、残せないものか。
労働以外で急ぐ必要があるものは? 分からないことはあり続けるのだろう。 ならば、慌てることもなかろうに。 どうせ断頭台へ向かうのなら、スポーツカーで? そんなバカなことがあるものかと、今日も歩き出す。
死は、やはり恐怖の対象である。 あらためて何故なのだろうと。 この世から、消えてなくなるからだろうか。 仮にそうだとしても、死以外に怖いものは、まだまだある。 疑心暗鬼の世で、死はむしろ安寧の場合も。
見せようとしているだけでは届かないだろう。 大切なことは何か? 全身心を体感しながら動いていくことだ。 ときに潜り切ってしまうときもあるだろう。 そのときこそ、視られて妙でない事態が発生しているのだ。
過去は振り返らず、単に放置しておきたいときもある。 問題は今としての過去なのだ。 あるいは、現在の中に蠢く明日。 みな、死んでいく。 好き嫌い、良い悪い、損得に振り回されながら、あれこれ忘れる日々だ。
目覚めたら、「えっ?」。 鏡に映っていたのは、赤の他人のような顔のジジイ。 割れた鏡ではない、普通の鏡だった。 取り合えず、「てへっ」と、「おはよう」とを同時に。 労働をさぼって歩き始めようかと――。
退職するとき、彼女は想った。 「何故、わたしが…」 ほどなくして晴々と、「何故、こだわっていたのか」と。 その後、続いて会社を去った彼。 今なお、「何故、おれが…」と呪詛、安酒をあおる日々なのだった。
若いとき、ブラブラしていた。 老い始めた今、とても懐かしい。 何故か。 誠実というより、切実な日々に、すっからかんであっても、基本的には呑気だったからだろう。 ブラブラできたら、どれほどいいだろうか。
顔を上げる。 どこもかしこも広告だらけだ、町の中、電車の中、公共施設でさえも。 小さな画面に、大きな画面の中もまた。 「疲れるよなあ」 目を開いたまま、実は閉じていて、1歩いっぽ、歩いていくしかない。
何もかもが娯楽化していく。 食事に睡眠、運動も。 旅は当然、歯を磨くことさえ。 怒られるだろうが、差別も、戦争も愉しみの対象のよう。 電車の座席でテーマが重い文庫本を開いたまま、窓の外を眺めるばかり。
「結局、人は死ぬ」 今朝、記していた。 そのことを忘れた経済偏重、しかも近視眼。 死を受け入れられる暮らしをと静かに希求する。 今、このときに、産まれる子もいるが、去っていく人もいる文脈が基本の姿勢。
何故ここにこだわっていたのかと。 強く望んだわけでもなければ、想いを無視していたわけでもない。 単純に離れるのが嫌だった? 理由はよく分からない。 離れて月日が経てば、どうということもないのだろうが。
騙されやすい方が。 人を見抜けない方もまた。 が、ことは簡単なのである。 要は、お金が行動原理、いいや、場合によっては、異性やヤクもか。 得しようというだけなのだから、そこがどこか判断すればいいのだ。
鍵を閉める日々は幸せかどうか。 かつて、盗まれるようなものは持っていなかった。 結果、鍵を閉めない暮らしを。 帰宅すると友人が寝ていたことも。 盗まれる物を持たないことは何とラクで清々しかったことか。
「ああ、気持ちよかった」の声に微苦笑を。 ただ、みなの視線は彼の指先に。 用足し後の全力の賜物がついていたのである。 一同、いわゆる固まった状態に。 静かさは打ち破られ、てんわわんや、大騒ぎの事態に。
まず腰掛ける場所を決める。 しばらくすれば、いくつかの想いがわいても来るだろう。 まずは直感にしたがい、うろうろし始める。 概ね、商品ではなく、少しでも自然の満ちた場所へ。 握り飯を頬張る時間である。
幸福が何か、よく知らない? 今日たった今、暮らしていける幸運を想うばかりだ。 が、想う、「自分を幸せにすることだ」と。 無頓着過ぎたかも知れない。 家族や隣人、あるいはと伸びて行くものはあるのだから。
人の手が必要な局面に遭遇を。 だから、手を借りた、当然のように。 とはいえ、相手の善意は無視。 しかも、助けられたにも関わらず、感謝の言葉も伝えなかった。 好まぬ人であるが故に、それで構わないのだと。