2017-01-01から1ヶ月間の記事一覧
巧みな生き方を目の当たりにした。 きょうび、悦ばしいことだ、愉快でもある。 幸福とは何か、ついに明確な言葉を持たないが、幸福感さえ味わった。 関係を大切に暮らす生き方と遭遇したのである。 元気が湧く。
政治の善意化ではない。 善意の政治化こそをと。 が、善意には今もなお、殺意が含まれていることは忘れないことだ。 生き延びるにあたって、基本のことである。 絶望するなら、殺意とともに暮らしていくことだ。
プラットホームで、盲人の手を引く。 大切なことである。 が、問題は何故、端を歩かなければならないのかだ。 ど真ん中に視覚障がい者誘導用ブロックを敷設すればいいだけではないのか。 そもそも、邪魔者扱い?
「愉しくいこうや」 そう、彼はゆっくりと重く呟いた。 「だってさ、それしかないだろう?」 想わず首肯していた。 口真似をして、わたしも呟く。 「そうだよな、愉しくいこうや、それしかないというぐらいに」
野坂昭如氏がキックボクシングを始めたとき、「何、考えているんだか」と。 が、「逃げ足を鍛えている」との言葉を想い出す。 「切実になったよな」 が、逃げ場所はない。 逃げ足の鍛錬が逃げ場所という情勢だ。
聴くな、あの誘導尋問は。 すでに豊かなのだ。 視ろ、目を閉じたままでも。 相変わらず貧しいままだ。 太った栄養失調、やせの栄養過多だってさ。 歩く、半歩でもいいから歩く、歩き続ける、歩ける限りは――。
もうそろそろ、認めてもいいんじゃあないのか。 いじめは犯罪であると。 遅過ぎてはいるのだが。 生涯にわたる傷を身心に残して、いいわけがない。 まずは自らの中に巣食う弱者と、添い寝してみることからだよ。
どんどん鈍くなっただけさ。 決して強くなったのではなくて。 むしろ、貧弱に弱くなっていく一方なのである。 いいんじゃあないのか、これで、このままで。 こうでしかないし、気づくのがむしろ、遅過ぎたのだ。
「格好いいな」 そう想うのは、例えば切り返しの鮮やかさがあるからだ。 見切っているのだろう。 姿勢よく、穏やかで、淡々としていれば、なお吸引されてしまう。 決して熱情ばかりに惹かれるわけではないのだ。
未来に受け渡すものとは? すでに読破できない量の情報のストレス。 それを想えば、残さないほうがいい場合もある。 が、未来の人から視て、今の営みで人類最古のものとみなされる佳きものが何かとは問うていく。
所詮、プレハブ文化? それでは何も言ったことにはならない。 プレハブだって、今や長く雨露を凌げるのだ。 仮に母屋であろうが、軒先であろうが。 身心が消耗するばかりの物言いに明日は内包されてはいないよ。
声をかけられた、「よくできますね」と。 片足立ちで下着をはいていたときだ。 話し掛けてきたのは爺さん。 「日ごろの練習ですよ」 答になっていなかったが、はくこと自体、練習であり本番と言いたかったのだ。コーヒーにドーナツ盤、黒いニットのタイ。作…
爺さんたちが一斉に手をふる。 わたしのほうを向き。 何のことはない、帰る爺さんに挨拶を。 すれ違うときハイタッチはするわ、年金話で盛り上がるわ。 沈黙したのは、際どい水着の女性が歩いてきたからだった。
相変わらずの略奪に強姦、殺人。 犯罪だらけだ。 それらが集約されて突出する場所としての戦争。 どこを探しても、正義など見つかるものか。 きれいごとですませても、ほら、臭ってくるさ、腐乱死体からの声が。
善を装う嘘。 心が真っ直ぐなのはいいが、悪を招く場合も。 ウェブでつながり続けの弊害さえ。 悪にでさえ表裏があり、功を奏するときも。 崖っぷちで踊ることはやめたほうがいいが、実のところ分かりはしない。
ないことに苛立つが、その場所を体験から経験まで深化させるしかない。 それだけで豊かなんじゃあないのか。 無論、やせ我慢さ。 そうとでも想わなければ、暮らしていけない? いや、単純にないものはないのだ。
寒く、暗い時分に目を覚ます。 そうして、何とか起き上がり、カーテンを開ける。 陽が少しずつ、昇ってくるのが分かるだろう。 それだけで部屋の中は暖かくはならない。 が、それでも自らに鞭打つことはできる。
ほら、あそこ、あそこに視えるだろう? 燃えカスがさ。 くべるものを探して、準備をするんだ。 そう、たった今から、それも、すぐにさ。 すっかり湿ってしまう前に、くべれば、まだ燃えるし、いつか燃え盛るさ。
親から虐められた子は自覚できるのか? 問い自体がすでに答。 そも、子どもは、痛めつけられても訴えられるわけがない。 家庭は癒しの場にも強制収容所にもなる。 逃れようとする術を、親もまた持ってはいない?
こともあろうに用心棒に母屋を貸してしまったのだ。 いや、母屋を長きにわたり献上しているのだった。 そうして、軒先で暮らす日々である。 小雨が身心を打つだけでも朽ちていく。 骨はない、すでに溶けたのだ。
落ち込む。 自分だけの問題ではないが。 仕方ないじゃないか、敗北したわけではない。 暴風雨に倒されそうになりつつ、立ち尽くしている。 日々は何だかんだと続くが、手のひらを見詰める呼吸を失うことなかれ。
かつて街に小さな明かりが灯れば、人々は刮目、感動の溜息さえ。 が、今への始まりでもある。 駅前は電飾で眩しくなったが、その光景も目になれた。 3月11日を忘れたかのように暮らす冬、祈りはふいに訪れる。
還暦を越えたが、初体験だ。 つまり、老いの素人なのである。 そも、死の素人なのは体験などしていないのだから。 生涯現役は言うまでもないことだ。 生きている間は、生きていることの現役でしかないのである。
情報としての言葉や映像、写真――。 すべてに背景がある。 発信者の思惑や意図が蠢き、儲け話に結びついているのだ。 この身心だって競売にかけられ、単に売れ残っているだけ? 呼吸を意識し、歩くことからだ。
チンケな店がどんどん消えていく。 そうして、高い建物が青空に向かっていくばかり。 地上の店は最早、地下にあるかのよう? 必要だ。 妙に落ち着く安っぽい店から滲んで来る、空へ跳ねていく温もりや笑い声が。
オリンピック? 「関係ないさ」と想うものの、そういうわけにもいかぬ。 お金の問題? 確かに。 想像を絶する大枚をはたき、一体何をどうするのだろう。 明日への、いや、今のヴィジョンさえないじゃあないか。
息もたえだえ、弱っていく人。 ふと、憐憫の情が、堰を切ったように流れ出て来たという。 「でも、気づいてしまったの」 そうして、呟いた。 「もうすぐ死ぬと分かっていたからいいけれど、殺意があったかなあ」
変哲もないおばちゃん。 デヴィッド・ボウイが好きだったとか。 「大嫌いな言葉だけれど、青春だったのよ」 拝啓おばちゃん、いいじゃないか。 孫が生まれるそうだが、「4世代で愉しみたかった」と軽く俯いた。
家族がいてよかった、寂しくないから。 いなければ、そのときはそのとき? たった独り、畳の上であぐらをかいて、グイとがぶ呑みを。 グルリには誰もいない。 つまみを見繕い、悪くない気分だと杯を重ねていく。
いいころの自分に戻る? そうしたことは、あり得ない相談だ。 突き進む、それも、ノーだろう。 そも、今のだぶついた腹とともに、今日から歩き出すだけだ。 運動靴を履いて、指に息を吐きかけ、顔を叩いてから。