2017-06-01から1ヶ月間の記事一覧
職を失うと孤立感が深まった。 間抜けなことに、「何で?」と感得を。 お金がなくなっていくばかりで不安が。 支援者が身近にいないとダメになっていたはずだ。 今の高齢者は、同様の想いを抱えているのかなとも。 しかも、身近になってくるばかりの死。
みながみな、やることが山積の結果、弾のほうへ? 避けるのだ、逃げるのではなく。 嘘さえ平気にならないためにも。 裏切らないことだ。 自分を殺めていることに気づかない致命的なミスからは逃れられるだろう。
短い人生? というより、人生は短いのだ。 死こそ常態なのである。 だからか、ときおり、地べたに顔をこすりつけたくなるのは? 美景の青空が爽快だ。 何よりの馳走ではないのか。 なあに、顔は洗えばいい。
火を眺める、ちびりちびりとやる、這って寝袋へ。 つまり作る・食べる・洗う、そうして出す日々。 大きな声で笑いもする。 地べたで眠る辛くも愉しいときの流れ。 ふいに、むき出しを身心に注入したくなるのだ。
ホームレスの予行演習の如き日々。 傲慢と言われようが、そう体感する還暦越えの日々だ。 頭は遅れ気味で、身体は重い上に、心は塞ぎ気味である。 「ったく」 とはいえ、ときに、「満更でもなえよな」と苦笑も。
残念だが、期待はしないほうがいい。 そうして、ゆっくりと待つのだ、待てるのなら。 一体何を? そうさな、待っている自分を受け入れられるまで、待つのだ。 朝に咲く花もあれば、夕に飛び立つ鳥もいるだろう。
目の前にやくざ者。 エチケットやマナー、ルールを守らないでいる。 が、注意できない。 一方で弱い者は叱責するなんて、「フェアじゃないよな」と。 やくざ者には言えないのではない、対応法に則せばいいのだ。
国の利益だけではない。 もちろん、民族の都合のみでもないだろう。 ハイエナとも言われる金融グローバル社会を目の前に、胸は塞ぐ一方だ。 超えていく方途はないものかと。 身心が安らぐ、それだけのためにも。
普通の難しさだ。 朝起きて多少の屈託はあれど、「行ってくるよ」と伝え、家族が、「気をつけて」と。 そうしたことさえ、できにくい。 何故? すでに地盤沈下しているからさ、立ち上がるのも容易ではないのだ。
日射しがある。 そうして、昼飯が美味しく食べられ、たまに手厳しい批判をしつつ、呑む。 しかも、勝手にとはいえ、子どもが育っていく。 それだけでも、十二分なのだ。 いやはや、今の日本はそれさえ難しい。
いつかなのではない。 いつでも来るものなのだ。 死は。 遠い親戚ではなくて、近所にいると踏んでおいたほうがいい。 嘘ではない、現に今も、昨日も、明日も、人は死んでいるし、死んでいたし、死んでゆくのだ。
潤いが今ここにどうしたって必要だ。 どんよりと硬直していたのだった。 息苦しさを体感して、あらためて気づかされたのである。 心持ちの節々が痛むのだ。 その対極を求めて至極当然、流れていきたいのである。
若いときばかりではない独りよがり。 いや、加齢とともに増える? 思い上がっても、何もいいことはない。 そも、目が眩んでいては、明日が視えないどころか、今に立脚することも困難だろう。 自分に目をつける。
目の前を高齢の男が歩いて行く。 たまに泳いでは、またウオーキングコースへ。 真面目に、どこまでも真面目に歩いては、泳いでいる。 「愉しいのかな」 満足して出て行く際、男はプールに礼をしていくのだった。
黙る、気づけば黙っている。 力で圧倒されたからではない。 炎を視ていて、いつしか炎だけを視つめていて言葉を発しなくなったのだ。 その豊穣な言葉を前に語ること自体が蒸発。 どこまでも満ち足りていたのだ。
自転車でヨタヨタと走る爺さんを抜いた。 すると突然、猛然とペダルを漕ぎ出し、あっという間に前方へ。 視れば、ジャージにベルトを巻いていた。 苦笑するしかない。 「悪かったな、でもさ、危なかったからさ」
うまく歌えない? 大切なことだよ、そこからなんだよ。 最初からうまく歌えるわけはないさ。 それにさ、うまく歌えたからといって、それだけではないんだ。 互いに響き合う呼吸が唄の基本なんじゃあないのかな。
唄は作るのではない。 夢なのだから? そうしたことを言いたいのではなく、唄は身体から湧いてくるものがいいのだと。 となれば、歌いながら形となっていく唄こそとも。 そのように、この短文も書いていきたい。
内容ではない。 リズムやテンポで面白くさせているのだ。 無論、内容がダメならつまらない。 適度でいいのだ、もはや内容は? いや、二日酔いの朝は重く深いテーマを、とっつきやすく投げかけて欲しいのだった。
直球勝負の短調からフワフワとした長調へ。 足早なリズムに、とろけるメロディー、いつしか親和性に満ちたハーモニーも。 声が、ただ声の全体が聴きたかった。 穴の中で。 脱出はできないと、分かっていたもの。
歩き方にも流行があるとのこと。 今や1万歩ではなくて、7千歩でいいとの説も。 ともにコケにできないのは、直立二足歩行にいたる進化の過程の絵を想起したからだ。 遠い未来、人々はどのような歩行をしている?
今はこうだ。 風呂にゆったりと入る、そうして、のんびりと夕食をとり、ときに笑う。 これだけで至極満足、身心が落ち着くことができるのだと。 鈍さのよさ? もはや当たり前とは言えない見慣れた光景のよさだ。
ふざけられないときがある。 どっしりと落ち着くこともできずに。 今や概ね、そうした事態? 場所が、場所で、場所を踊る――。 なかなかに困難だが、「暮らしの」という言葉を冠することができればいいと願う。
「さあ、歌おう」というとき、メジャーやマイナーはない。 ただ歌うだけではないのか。 もっとも、自然と口ずさむときが唄の源ではあるのだったが。 歩き出す。 と、そのとき、口から言葉の風が吹き出せばいい。
暑い時季、冷奴が愉しみだ。 豆腐を手に乗せて切る、手は決して切らないように。 すでに愉しみは始まっている。 それにしても、いつ身に着けた感覚なのだろう。 そんなことを想いつつ、ネギもまた同時に愉しむ。
落語のご隠居と熊公の関係。 「いいなあ」 互いが互いを必要としていることに想い至ったのである。 そも、もたれ合っていない、いや、もたれ合い具合にも惹かれた。 想いは強いものの、気が弱いお人よしはどこ?
雛鳥に食べものを繰り返しくりかえし運ぶ親鳥。 必死かどうかは、実は知らない。 が、昨今のニュースを視て、想起してしまうのだ。 「あれだよな、あれしかないよな」と。 世界中の雛鳥は声を上げ、待つばかり。
子守唄を聴かずに、育った人がいる。 やさしい心根で暮らしてきた。 彼は言った、「耳が聞こえなくて」。 当然のことだが、親はたいそう心配したという。 「あ、その声を聴いたわけではないのですが」と微笑む。
人は人を、ついに分からないだろう。 とはいえ、歩き方で感じるときもある。 速度や姿勢、音の立て方で。 肩に手を置けば、「分かった」と感じるときも。 傲慢かも知れないが、源泉は分かってもらえただろうか。
5月、青空の下にいた。 ふと、泳ぐ鯉のぼりを視て哀しむ方はいるのだと。 逆に殺害の現場に嬉々とする人も。 「暮らしに一定の法則などあるわけもなし」 そう、安易に結論づけたとき、涼風が通り抜けていった。