公園のテーブルで食事をしようとした親子。
カラスが弁当を狙い始めた。
追い払おうとするが、逆にからかわれている。
そこへ酔ったオヤジ。
「危うし親子」と思いきや、オヤジがカラスに説教し始めたのだった。
公園のテーブルで食事をしようとした親子。
カラスが弁当を狙い始めた。
追い払おうとするが、逆にからかわれている。
そこへ酔ったオヤジ。
「危うし親子」と思いきや、オヤジがカラスに説教し始めたのだった。
選択と集中の誤謬。
周辺も大切だろうし、そも、あらぬ方向へ向かう場合も多いからだ。
すでに、障がいは、社会の側や他者の問題との指摘も。
開かれていくこと。
弱さを弱さのままで肯定できるかどうかなのだ。
彼は言った、「福祉や人権って苦手」と。
どうやら、健康的な人生も。
要は、こうだ。
「ただ、思い込みを強くする方向でないなら、みな、大切」
「嫌な想いをさせられてきた」のだと、不自由な目で語っていた。
よさを希求する。
「そのこと自体に悪が潜む」という方が。
知性の悪行を指摘したかったのだ。
ところで、恨みや諦め、悲哀と縁のない人生はあるのか?
死を想えばないのだから、せめて少しでもよければいいさ。
肉が落ちるばかりの昨今。
自分の尻のどこに座ろうか――。
賃労働の際、長く座っていたとき、感じていたことだ。
尻にも、いろいろな場所があるのだった。
即、立ち上がるにあたっても、大切な問題なのである。
図書館があらためて愉しみになっていた。
人が少ない場所で新聞を広げて読めるのだから。
とはいえ、新型コロナウイルスのため閉館中。
読む、知る、発見する。
そうした愉しみを味わえない久しぶりの寂しさか。
柔らかくともズバリと言う。
嘘はなく、隠し事はしない。
そうした人が身近にいれば、豊かさの契機に。
身体は1つ。
内臓と内臓の隙間にこそ命の源があるとの話もあるが、生の源としての言葉を失うべからずか。
他を敬い、己は慎む。
願ってはいるが、難しい。
いつか、静かに蕾を破り、艶やかに咲き誇る花として、暮らしは尊ばれるのか?
達人以外、意志で心臓は止められない。
が、勝手に動いているほうが、驚きなのだ。
行動が祈りにしか視えないときがある。
追い詰められ、祈り自体が行動になるときも。
今のことなのかも知れない。
嘆くより、祈るほうがいい。
何はともあれ、死を土台に生きていることを想えば、祈るしかない?
子どもでなければ出逢えなかった人がいる。
豊かな貧しさとは言いたくないが、そうした時代だった?
人と人の、むき出しな交差の横溢――。
ふと、カメラは立ち入り禁止の場所にも望遠レンズで入っていけるなと。