病を得たわけではない。
にも関わらず、何だか気分がすぐれない――。
逆に、病気なになってしまったのに、いたって元気。
どうしたわけか、そうしたときがあるものだ。
人にもよるのだが、技にもよるのだろう。
【愉しみを耕す=小道主義者として/今日も少しだけ】
自分をあえて規定すれば、どうか。
やはり、小道主義者となるだろう。
歩いているだけで、愉しい。
もちろん、理由は分からない。
アメリカの詩人には、カウンターカルチャーにしろ、オープンロードという視点・視座・視野があったと想う。
開かれていく姿勢はいい。
ただ、その多くには、大道という無意識があったと記憶する。
いや、すべての詩人を読んだわけではないから、断言はできない。
あくまでも印象である。
ホイットマンから、つい最近までのディラン、スナイダー、ギンズバーグにいたるまで、大道という印象があるのだった。
そこに惹かれはしたが、「では、お前は?」と自らに問えば?
「やっぱ、小道主義者だな」と。
細く、小さい道としての小道。
ただ、長くなれば、小道とは言えなくなるので、短い道としての小道。
短いところが、残念ではあるのだったが。
いずれにせよ、儚い^^。
そうした小道へ、大きな通りを避けて、向かう。
そのとき、身心は浮かれ始めているのだった。
どうか、今日も、ご無事で。
【追記/「重いよなあ」】
極刑のとき。
体重が重いと、首と胴体が離れてしまうそうだ。
それでも行われてきた日本。
体重だけではない、重い話だ。
佳き今日を。