若いころ、私という言い方が苦手だった。
今は、僕という言い方に距離がある。
私はわたし、僕はぼくならいいか。
とはいえ、後者にも抵抗感がある。
自分でも、じぶんでもない。
そう、わたしは、感じている。
※無名性のわたしとして生きていく。
それこそ、私である、みたいな。
【圧制について/今日も少しだけ】
ふと想い出していた。
学生時代のことを。
どこかの部室だった。
陽射しが明るく差し込んできていたことを、奇妙に覚えている。
議論、いや、詰問のシーンを、何故か、想い出していたのである。
学内の最大派閥のセクトが、他のセクトの代表を呼び付けていた。
そうして、ほぼ詰問状況だったか。
わたしが何故、そこにいたのかは覚えていない。
興味があっただけではないのだろう。
とにかく、相手2人に対して、最大派閥の長を含めた3、4人かが、静かに、あるいは激しく、形だけは論理的に攻めていたのである。
わたしは、話を追いながら、「何だかなあ」と思い始めていたか。
要は、「理屈は通っているが、物言いがひどい。物言い自体、大切な内容なんだよな」と。
そもそも、わたしは、両者の思想とは遠い場所にいた。
要は、党派であること自体、誤謬ではないのかと。
が、「ま、今は、責められているほうに加担するしかないか」と直感を。
ただ、責め立てられていた女性が、突然、大粒の涙を流し始めたのである。
拭おうともせずに。
「えっ?」
意外な展開だった。
「この場所でか?」
当時売れていたアイドルのような顔立ちの女性。
わたしは、驚いていた。
「ひでえことになっちまった」
ほどなくして、論破されたことを認め、男性と部屋を出ていった。
その後、どうしたか。
記憶にはない。
仲のいい友人に話したことを、うっすらと想い出しはしたが。
ただである。
ただ、「彼女は引きずるだろうな」と体感したことだけは、よく覚えているのだった。
何十年も経って、「あのときもっと早くに加勢しておけばよかったな」と後悔しながら、わたしが想い出すぐらいなのだ。
当時の他大学での陰惨な党派の争いのことを想えば、牧歌的だったとは言える。
青春の一コマ?
そうかも知れない。
が、多数が少数を詰問する在り様は、ごめんだと。
もちろん、相手が権力者であれば、その限りではないが。
構造を変えれば、何とかなるなどという幻想は、ない。
人が、それほど善人ばかりとは想えないし、善人だからこその悪という領域もある。
とはいえ、変えたほうがいいこともあるだろう。
そうしたことも想起を。
どうか、今日も、ご無事で。
【追記/「ううむ心理今日だよな」】
戦禍にコロナ禍、自然災害に人災。
今年も暮れゆく。
「美しい音色に涙したナチスの連中もいたんだよな」
ふいに想い出していた。
佳き今日を。