深呼吸する言葉・ワナタベジンジンタロウ

おっさん中退・ジジイ見習い

歩行法/老道・219

早足に目的地へ。
が、どんなに早足であっても、1歩いっぽ、歩いているのだ。
両足1度に靴は履けないのと、同様に。
1歩いっぽ、確かに歩いていくしかない。
「転ばないためにも」と言い聞かせる齢を迎えた?

▲『夕焼け』(写真)
久しぶりのことだ。
公園で、夕焼けを視たのは。
短時間で、暗くなっていた。
「冬だな、まだ」

www.youtube.com【違和感のある、詩人の素晴らしさ/今日も少しだけ】
 茨木のり子氏。
 いい詩を書いたと想う。

 が、「自分の感受性くらいは自分で守れ」という言葉に、違和感を抱いてもきた。
 たとえ、茨木氏が、自らに放った言葉にしろ。

 当たり前のことだからだ。
 そうして、こうだ。
 自分で守れる感受性など、たかが知れているのではないのかと。

「優等生だなあ」というわけだ。
 と同時に、うまいところを突くなとも。

 戦中派だからか、個に信を置く物言いが希望だったのだろう。
 が、何というか、衛生的過ぎる。

 とはいえだ。
『歳月』(花神社)という、死後、発刊された詩集を読み、「えっ?」と。
 若い獣時代のことも描いていたのである。

 あらためて、読み直したい詩人である。
「巧みだな」の向こうを知りたくもあるのだった。

 ちなみに、茨木氏の敬愛していた金子光晴氏は個に立脚したが、とんでもない人非人だった^^。
 個の意味が違うのではないのかという点も、宿題か。

 ここで、多くの読者を獲得した『倚りかからず』(ちくま文庫)を、まず引用しておきたい。
 こうだ。

 もはや
 できあいの思想には倚りかかりたくない
 もはや
 できあいの宗教には倚りかかりたくない
 もはや
 できあいの学問には倚りかかりたくない
 もはや
 いかなる権威にも倚りかかりたくはない
 ながく生きて
 心底学んだのはそれぐらい
 じぶんの耳目
 じぶんの二本足のみで立っていて
 なに不都合のことやある
 倚りかかるとすれば
 それは
 椅子の背もたれだけ

 読んだとき、「ふうん」だった。
 これに対して、ドイツ文学者の丘澤静也氏は、その傲慢さに怒り、返歌を。
 こうである。

 やっぱり
 すぐれた思想には寄りかかりたい
 やっぱり、
 素敵な宗教には寄りかかりたい
(略)
 長く生きて、
 中途半端に学んだのはそれくらい
(略)
 背筋をきたえて、
 寄りかからないとすれば、
 椅子の背もたれだけ

「あはは」と笑ったものだ。
 個への、いろいろな位相。

 どうか、今日も、ご無事で。


【追記/「さてっと」】
 すでにして、夜。
 あっという間に、ときは経つ。
 佳き日々を。