深呼吸する言葉・ワナタベジンジンタロウ

おっさん中退・ジジイ見習い

人間以外とも暮らしたい/令和問わず語り・68

貧しくても、まずは食べられている。
望みは犬や猫、亀と暮らすこと。
ただ、集合住宅で暮らしているので今日今月、いや、来月も無理か。
念は、残る。
が、「いつか」と、ますます想いはつのっていくのだった。

▲『座るか』(写真)
歩いていた。
「あっ」
切り株と出逢う。
「座ってみるか」
お茶のセットを置く広さ。
「いいぞ」

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【ノーベルな/今日も少しだけ】
 ボブ・ディラン
 1965(昭和40)年のことという。
 あの『ライクアローリングストーン』を歌うために、アメリカ南部へと向かったそうだ。

 ただ、そのとき、バンドのメンバーから脱退してしまった人が、2人いた。
 あのアル・クーパーとリヴォン・ヘルムである。

 理由は、それまでのブーイングとか。
 嫌気がさしたというのだった。

 当時、ロックは、資本主義の犬、反動の音楽だったと感じられていたのだろう。
 フォークのディラン、危うし。

 とはいえ、ディランは、南部へ。
 身心が、おかしくならなかったのだろうか。
 なってはいただろう。
 しかし、よりによって、南部へ向かったのだ。

 とはいえ、ギリギリのところで、確信があったのではないのか。
 やむにやまれない想い。
「この唄を聴かせたい」
「誰かに届くはずだ」
「きっと分かってもらえることだろう」

 何より、こう痛感していたのではないのか。
「これが、今の唄だ」

 実際は知らない。
 が、黒人問題、とどのつまり白人問題で殺人も起きていた南部へ向かったのだ。
 確信がなければ、行かなかっただろう。
 たいしたものだと、あらためて想う。
 そうして、「薬ぐらいやって当然だよな」と。

 かくして、それから時間を経て、島国で暮らす人々にも、歌声は届いたのである。
 例えば、わたし。

 当時、ビートルズは不良の音楽で少数派。
 国内で聴かれていたのは、グループサウンズや演歌、歌謡曲だったか。
 ディランなど、聴いている者は周囲にいなかった。
 何故だったのだろう?

 それにしても、当時の流行り唄の多くを、今でも鼻唄で歌えるのは、どうしたわけか。
 特にしっかりと聴いていたわけでもないのに。
 いや、今は先を急ごう。

 ともあれ、ディランの、あの歌声にたまげたのだった。
 そうして、あの美声とは想えない声を含めて、美しい音色と体感していたのである。
 繰り返しくりかえし聴いていたのだった。
 わたしが夢中になり始めた中学生のころには、ディランはすでにロックの極北を潜り抜け、カントリー・ミュージックを始めていたのだけれども。

 ともあれ、今、手元には、当時の歌声を記録した音盤がある。
『吠える』でも知られたアレン・ギンズバーグが録音していたものを、音盤にしたものだ。

 切実、かつ跳ねている。
 息苦しくて、丁寧でもあるのだった。

 感じ入りながら、今、この画面に向かっている。
「57年前の歌声かあ」

 どうか、今日も、ご無事で。


【追記/「相変わらずか」】
 相変わらずクサクサとしている。
 小さな身辺状況から、大きな政治状況にいたるまで。
「ますますかあ?」

 コロナ禍や戦禍、災害や原発問題等々が悪影響しているのは分かっている。
「ここからだぜ、ここからなんだぜ」
 そう、相変わらず体感をしている。

 佳き日々を。