貧しくても、まずは食べられている。
望みは犬や猫、亀と暮らすこと。
ただ、集合住宅で暮らしているので今日今月、いや、来月も無理か。
念は、残る。
が、「いつか」と、ますます想いはつのっていくのだった。
【ノーベルな/今日も少しだけ】
ボブ・ディラン。
1965(昭和40)年のことという。
あの『ライクアローリングストーン』を歌うために、アメリカ南部へと向かったそうだ。
ただ、そのとき、バンドのメンバーから脱退してしまった人が、2人いた。
あのアル・クーパーとリヴォン・ヘルムである。
理由は、それまでのブーイングとか。
嫌気がさしたというのだった。
当時、ロックは、資本主義の犬、反動の音楽だったと感じられていたのだろう。
フォークのディラン、危うし。
とはいえ、ディランは、南部へ。
身心が、おかしくならなかったのだろうか。
なってはいただろう。
しかし、よりによって、南部へ向かったのだ。
とはいえ、ギリギリのところで、確信があったのではないのか。
やむにやまれない想い。
「この唄を聴かせたい」
「誰かに届くはずだ」
「きっと分かってもらえることだろう」
何より、こう痛感していたのではないのか。
「これが、今の唄だ」
実際は知らない。
が、黒人問題、とどのつまり白人問題で殺人も起きていた南部へ向かったのだ。
確信がなければ、行かなかっただろう。
たいしたものだと、あらためて想う。
そうして、「薬ぐらいやって当然だよな」と。
かくして、それから時間を経て、島国で暮らす人々にも、歌声は届いたのである。
例えば、わたし。
当時、ビートルズは不良の音楽で少数派。
国内で聴かれていたのは、グループサウンズや演歌、歌謡曲だったか。
ディランなど、聴いている者は周囲にいなかった。
何故だったのだろう?
それにしても、当時の流行り唄の多くを、今でも鼻唄で歌えるのは、どうしたわけか。
特にしっかりと聴いていたわけでもないのに。
いや、今は先を急ごう。
ともあれ、ディランの、あの歌声にたまげたのだった。
そうして、あの美声とは想えない声を含めて、美しい音色と体感していたのである。
繰り返しくりかえし聴いていたのだった。
わたしが夢中になり始めた中学生のころには、ディランはすでにロックの極北を潜り抜け、カントリー・ミュージックを始めていたのだけれども。
ともあれ、今、手元には、当時の歌声を記録した音盤がある。
『吠える』でも知られたアレン・ギンズバーグが録音していたものを、音盤にしたものだ。
切実、かつ跳ねている。
息苦しくて、丁寧でもあるのだった。
感じ入りながら、今、この画面に向かっている。
「57年前の歌声かあ」
どうか、今日も、ご無事で。
【追記/「相変わらずか」】
相変わらずクサクサとしている。
小さな身辺状況から、大きな政治状況にいたるまで。
「ますますかあ?」
コロナ禍や戦禍、災害や原発問題等々が悪影響しているのは分かっている。
「ここからだぜ、ここからなんだぜ」
そう、相変わらず体感をしている。
佳き日々を。