「結局」と。
結局、人生とは何かという問いについて、明確な答えが分からないうちに死んでいく――。
つまり、それが人生なのか。
一体全体どうなのだろう。
1つ言える、「人に必要とされたのなら幸いか」と。
【愉しみを耕す=なんちゃって瞑想②=/今日も少しだけ】
なんちゃって瞑想の間のことだ。
あれこれ脳内をよぎるものがある。
それで、いいと想う。
言葉のときがある。
映像のときも。
あるいは、その両方のときもあるのだった。
そうしたことを、放置しておく。
それでいいのだった。
外界と身心には関係があるのだから、想念が浮かんできて、当然か。
無理に消そうとは想わない。
時間にして、数分か。
ただ座っているのだった。
終えたとき。
少しずつ目覚めるような感覚で、身心を感じていく。
後は、身体を軽く叩く。
了となる。
以上か。
終えた後、何やら充実感がある。
だから、「おっ、なかなか」と。
かつて、禅寺で寝泊まりしていたことがある。
食事も修行とのことから、お茶と沢庵で食器をきれいにしたか。
つまりは、暮らし全般が、修行なのだと。
修行というと堅苦しいが、わたしの場合は、なんちゃってなので、そこそこ愉しい。
自らの汚泥を体感、終えたとき、スッキリしているときも。
自然と、合掌をしている場合もあるのだった。
どうか、今日も、ご無事で。
【追記/「またしてみるか」】
また、瞑想をする。
今日も、この短い文章をアップしたら、してみようかと。
佳き今日を。