今日もこの画面から世界へ向かっていく。
言葉で。
言い残したことはないかどうか。
ないとは言えないが、あるとも言い切れない気もしているのは、どうしたわけか。
諦めもあるのだろうが、それではいけないな。
【愉しみを耕す=身心とともに=/今日も少しだけ】
ここのところ、『愉しみを耕す』と題して、記してきた。
結局、わたしの場合、身心にまつわることが多いのかと。
分かっていたことだが、あらためて理解できたのだった。
いわゆる敗北の後、“撤退戦として身心の領域へ”という人々が多くいたことは知っている。
分かるが、わたしは鈍いので、敗北感というより、単に切実だっただけだ。
確か、ギンズバークの詩歌に、「毛沢東もニクソンも同じ肉の船に乗っている」みたいなフレーズがあった。
その肉の船を、漕ぐことが存外、難儀だったと痛感したのである。
いずれにせよ、特に快適さだけを求めているわけではない。
事実、太極拳にしろ、ヨーガにしろ、難儀な領域もあるのだから。
難儀さを何とかしたくて、遭遇した難儀さみたいな^^。
いやあ、厄介ではあるなと。
どうか、今日も、ご無事で。
【追記/「いやはや」】
怒り。
できるだけ避けたい。
肝臓を傷めるそうだ。
が、そうとばかりは言っていられないのだろう。
遠くなった国葬?
あらためて、「何故、あんな愚行をしたのだろう」と。
事実が詳らかになればなるほど、後世の人々は、理解できないだろう。
経済に外交もそうだが、何より国会での虚偽答弁。
これでもかこれでもかと、続いた酷さ。
山上砲で開示された宗教団体、いや、犯罪集団の保護・存続、あるいは活用なども含め、背景の権力への固執。
その病は、不治のものだったのだ。
「それで、国葬?」と。
それでも、わたしたち、わたしは、暮らしていく。
勝つ必要はないが、負けていいわけがないのだった。
こうした想いが、いいわけはないのであるのだったが…。
佳き今日を。