「希望とは人類が最後にかかる病」
この言葉と出逢ったのは、大昔か。
以来、希望という言葉のおめでたさに違和感を。
ただ、最近は違うのだった。
希望という言葉は闘いの別称だと、想うようになったのである。
【生の側に今、少しでも/今日も少しだけ】
好きになった人に、ふられる。
さぞ、しんどいことだろう。
「どうしてなのだ」と。
♪捨てても捨てられても、うらみっこなしよ
そう、歌いたくもなる?
いいや、渦中にあれば、それどころではないだろう。
特にふられたわけでもないのに、自殺する人が今も多い。
生活苦もあるという。
国から、ふられた?
そう感じたのか、どうかは分からない。
中には、受験で失敗して、自死する人もいるようだ。
大学にふられた?
やはり、分からない。
わたしの場合、自殺に憧れたのは、若いころだ。
あくまでも、憧憬か。
唄の一節にあったなと想い出した。
♪法律より死のほうが慈悲深い
「殺すな」、「死ぬな」、「生きてよ」といった言葉。
その後、生きて暮らしていくとしても、絶望しか持てない事態。
つまり、なかなか言い出し難い言葉になったのだろうか。
いいや、生きていれば、勝てなくても、負けなくてすむときがあるのではないか。
そのときのために、せめて、「(自分を)殺すなよ」、「(やっぱり)死ぬなよな」、「(できれば)生きてよね」と言っていいのではないか。
自らに対しても。
どうか、今日も、ご無事で。
【追記/「さてっと」】
今日は、よく動いたか。
最後は、夜のプールでクールダウンというか、水中おちゃらけ歩行を。
佳き今日を。