貧者の一灯――。
いい言葉だ。
貧者は、往々にして一灯を欲しがるだけになってしまうからである。
嘘ではない、わたし自身、実際、身に覚えがあるのだったが。
寒く、感染症は続くが、互いに生き延びていこう。
【茨木のり子氏について/今日も少しだけ】
過日、現代詩の長女と言われる茨木のり子氏について、テレビで取り上げていた。
若者たちにも人気の様子だ。
わたしは、異例の売れ行きだったという詩集を読み、「拠りかかるときがあってもいいんじゃね」と思ったものだったが。
「ケチだよなあ」と。
とはいえ、「女の言葉が鋭すぎても 直截すぎても 支離滅裂であろうとも それをまともに受けとめられない男は まったく駄目だ すべてにおいて」という言葉には、射抜かれた記憶があるのだった。
茨木氏は、単語に「お」がついたり、人の名以外に「さん」をつけるのも好まないといいつつ、金子光晴翁の、次の詩の一節には深く賛同しているのだった。
なじみ深いおまんこさんに言ふ
サンキュー・ベリマッチを(『愛情46』)
言葉のインフレ状況の中、茨木氏の不在を想っていた。
氏は次のようにも記していたのだった。
言葉が多すぎる と言うより 言葉らしきものが多すぎる というより 言葉と言えるほどのものが無い この不毛 この荒野 賑々しきなかの亡国のきざし さびしいなあ うるさいなあ 顔ひんまがる
どうか、今日も、ご無事で。
【追記/「そうだよなあ」】
「あなたにとっての沖縄とは?」との問い。
金子光晴氏は、1972(昭和47)年、こう応えたそうだ。
「沖縄は独立国として、戦争の責任をその加害国に要求すべきだと思います」
佳き日々を。