街へ出る。
市場へ出るということだ。
料理から衣服、電化製品等々を購入する。
お金で、何より自分が働いた時間で買っているのだった。
労働が祝福される領域ならいいのだったが、それはもはや、労働ではない。
【やっぱり現場へ行くに限る=俳句と再会=/今日も少しだけ】
昨日、近隣にある浄土真宗本願寺派系列の大学で講演会が。
が、ウェブで同時配信されるとのことから、自宅で聴くことにした。
雨もあった。
が、実は、学生気分を味わいたかったからである。
そう、学生気分。
コロナ禍以降、授業は、実習はともあれ、画面上で展開されるようになったともいう。
教える側も、映像を製作するようになり、大変になったとも聴いたことがある。
撮影中、最後のほうで、鳥が鳴いてしまい、撮り直しなどもあったそうだ^^。
さて、結果。
「やはり、現場だな」と痛感をした。
講演テーマは、『季節をめでる/俳句の力』。
啓発されたのだが、要は、集中できなかったのである。
新聞を手にしたり、机の上を片付けたり、他の画面を読んでしまったりしたのだった。
「閉じ込められることが、功を奏する場合もあるな」と久しぶりに、体感したものだ。
もはや、加齢で、ながら勉強ができなくなっている。
にも関わらず、癖だけは残っていると、あらためて体感を。
「ただなあ」と。
ただ、情報量が圧倒的になっていることもさることながら、読みたい記事、聴きたい音楽、視たい映像は増えるばかりで、はてさてと。
実際、皮肉なことに、ムヒカ氏の、「貧乏とは欲が多過ぎて満足できない人のことです」という言葉さえ、欲が多過ぎて、出逢えたのだったが。
しばらくは、情報まみれか。
いや、生涯?
鶴見俊輔氏は晩年、100冊の本をとっかえひっかえ読む暮らしについて、語っていたが、そうなれるのか、どうか。
そうだ、鶴見氏は、自分を支える言葉を、小さな本にまとめていたことも、想起した。
よく分からない言葉も。
「個人的なのだから、それはそうだろうな」と。
どうか、今日も、ご無事で。
ちなみに、画面上で講演を聴き、以下のメモが手元に残った。
俳句は挨拶、語りかけ。
強い自己主張ではないので届くが、もちろん自己主張の強い句もある。
季語の妙、例えば枯れる等々も季語。
俳句で自然と出逢い、深まる。
月を視るための池でのエピソードなど、「なるほどなあ」と。
空に浮かぶ月を愛でていて、注意されたというのだった。
暮らしの大切さを知り、暮らしを大切にしていく営為としての俳句というわけか。
『二十四節季』をあらためて、「知りたいな」と。
再び、「どうか、今日も、ご無事で」と。
【追記/「あらまあ」】
それにしても、元総理のファンが多いということに、たまげた。
「えっ、この人がファンだったのか」
そういうことなのだろう。
いやあ、あの男のどこが、がんばったと?
「判断停止じゃね?」
そう、痛感している。
佳き日々を。