深呼吸する言葉・ワナタベジンジンタロウ

おっさん中退・ジジイ見習い

疎外の前線で/当世労働者覚書・151

街へ出る。
市場へ出るということだ。
料理から衣服、電化製品等々を購入する。
お金で、何より自分が働いた時間で買っているのだった。
労働が祝福される領域ならいいのだったが、それはもはや、労働ではない。

▲『畑へ』(写真)
水と光、土などで生きていく存在。
そうして、人々を生かしてくれるのだったが。
「うらやましい」
そうは、あまり想わない。
が、究極の進化した存在とは感じている。

▲『曼珠沙華の季節』(写真)
近隣の畑で、毎年、咲く。
秋の到来か。
毒性があるとも聴くが、「大丈夫なのかな」と。
動物などを寄せ付けないためにか。

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【やっぱり現場へ行くに限る=俳句と再会=/今日も少しだけ】
 昨日、近隣にある浄土真宗本願寺派系列の大学で講演会が。
 が、ウェブで同時配信されるとのことから、自宅で聴くことにした。

 雨もあった。
 が、実は、学生気分を味わいたかったからである。
 そう、学生気分。

 コロナ禍以降、授業は、実習はともあれ、画面上で展開されるようになったともいう。
 教える側も、映像を製作するようになり、大変になったとも聴いたことがある。
 撮影中、最後のほうで、鳥が鳴いてしまい、撮り直しなどもあったそうだ^^。

 さて、結果。
「やはり、現場だな」と痛感をした。
 講演テーマは、『季節をめでる/俳句の力』。
 啓発されたのだが、要は、集中できなかったのである。

 新聞を手にしたり、机の上を片付けたり、他の画面を読んでしまったりしたのだった。
「閉じ込められることが、功を奏する場合もあるな」と久しぶりに、体感したものだ。

 もはや、加齢で、ながら勉強ができなくなっている。
 にも関わらず、癖だけは残っていると、あらためて体感を。

「ただなあ」と。
 ただ、情報量が圧倒的になっていることもさることながら、読みたい記事、聴きたい音楽、視たい映像は増えるばかりで、はてさてと。

 実際、皮肉なことに、ムヒカ氏の、「貧乏とは欲が多過ぎて満足できない人のことです」という言葉さえ、欲が多過ぎて、出逢えたのだったが。
 しばらくは、情報まみれか。
 いや、生涯?

 鶴見俊輔氏は晩年、100冊の本をとっかえひっかえ読む暮らしについて、語っていたが、そうなれるのか、どうか。
 そうだ、鶴見氏は、自分を支える言葉を、小さな本にまとめていたことも、想起した。
 よく分からない言葉も。
「個人的なのだから、それはそうだろうな」と。

 どうか、今日も、ご無事で。

 ちなみに、画面上で講演を聴き、以下のメモが手元に残った。
 俳句は挨拶、語りかけ。
 強い自己主張ではないので届くが、もちろん自己主張の強い句もある。
 季語の妙、例えば枯れる等々も季語。
 俳句で自然と出逢い、深まる。

 月を視るための池でのエピソードなど、「なるほどなあ」と。
 空に浮かぶ月を愛でていて、注意されたというのだった。

 暮らしの大切さを知り、暮らしを大切にしていく営為としての俳句というわけか。
『二十四節季』をあらためて、「知りたいな」と。

 再び、「どうか、今日も、ご無事で」と。

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【追記/「あらまあ」】
 それにしても、元総理のファンが多いということに、たまげた。
「えっ、この人がファンだったのか」

 そういうことなのだろう。
 いやあ、あの男のどこが、がんばったと?
「判断停止じゃね?」
 そう、痛感している。

 佳き日々を。