死者を悼む習慣。
小さいころから慣れ親しんできた。
若いときには、うんざりしていたが。
今、想う、いつまでも線香はあげられ続けるのだろうかと。
死は悼むだけの対象であり続けるのだろうかと、青空を探す。
【愉しみを耕す=なんちゃってヨーガ①=/今日も少しだけ】
そうだ、最初は、太極拳を始めたのだった。
30歳代半ばのことか。
周囲に倒れる奴が出始めて、「こりゃあ、何かしないとな」と。
すると、友人が言った。
「太極拳がいいと想うよ」
始めて、すぐに分かった。
からだが硬いと。
「まいったな」
そこで始めたのが、ヨーガである。
しびれた^^。
からだは硬いままで、何とも情けないあり様だったが。
「偉そうなことを言っても、自分のからだ1つ、十分に使えないなんて、しょうがねえよなあ」
率直な想いだった。
呼吸法には、蒙を啓かれた。
いくつもの対位法にも。
いつしか、コツをつかみ、逆立ちができるようになっていた。
「だから、何なんだ」と言われても、困るが。
オウム真理教が事件となったとき、いかれる連中が出たことは、「当然だろうな」とも想った。
身心は硬いままでも、確かに発見があったのだから。
それも一等身近な自分という場所で。
どうか、今日も、ご無事で。
(以下、明日に続く)
【追記/「そりゃあそうだよなあ」】
家訓が、「対米従属を通じての対米独立」の一家。
爺さんは、逸見アナウンサーに、「あれは侵略戦争ですよ」と率直に応えていた。
大昔、刺されたとき、大人たちは言っていたものだ。
「だらしねえなあ、あれぐらいのことで」
そりゃあそうか、大人たちは、戦争へ行ってきたんだもの。
佳き今日を。