深呼吸する言葉・ワナタベジンジンタロウ

おっさん中退・ジジイ見習い

カレーを想う/食卓慕情・45

物語を想い出す。
定年を迎え、会社を去る日の話だ。
行きつけの蕎麦屋へ寄り、カレー南蛮を注文したという。
落ちは、ワイシャツを汚さないため食べてこなかっただったか。
正月、カレーが食べたくなるものだ。

※誰が書いたか、忘れた物語。
「なるほど」と想った。
 が、「大きなハンカチなり、タオルを用意すればいいだけなのになあ」とも。

▲『見当たらない』(写真)
あはは。
誰もいない。
さぶいものね。

▲『痛っ』(写真)
「あっ」
人質ならぬ樹質。
言いにくい。

www.youtube.com【元気を想う/今日も少しだけ】
 東洋医学では確か、「病気ではなく、病人を診る」姿勢ではなかったか。
 大切なことだろう。
 ウェブで視ると、ナイチンゲールも、そう言っていたそうだが。

 病ばかりにとらわれて、人を診ない。
 そうした場面は、診察の場面で出遭うものだ。
「ねえ、少しは、わたしのこと(個別のこと)を聴いてよ」というわけである。

 今の制度では、致し方ない領域もあるのだろう。
 が、そこにつけ入る似非医療も。

 禅の世界では、「病気になっても病人にはなるなよ」と言っているそうだ。
 なるほど、これまた、「確かに」と。

 医療をする側・受ける側双方の姿勢。
「不在だから、求められているのだろうな」

 病はあっても、病人にならなければ、不治の病でない限り、治りが早いかも知れないのだ。
 仮に治らない病だとしても、元気でいられ、残された人生を愉しめるのかも知れない。

 ただ、想う。
 病も人も、当たり前のことだが、ともに診て欲しいと。
 そうして、「病気になったときぐらい病人になってもいいじゃあないか」とも。
 そこを徹底化して、視えてくることもあるのではないかと、ふと。

 では、「お前の今後はどうなのか」と問われたのなら、どうか。
 よく言われる未病、つまりは病気になる前に手を打っていくしかないのかなと。

 もっとも、太極拳やヨーガなどはしているが、健康に悪いことも相変わらず、しているのだったが。
 二日酔いの朝に、「偉そうなことは言えないよな」と。

 いずれにせよ、断定だけはしたくないのだろう。
 何が功を奏するか、分からないのだから。

 今年もどうか、ご無事で。


【追記/「ええと」】
 すでに夕闇。
「ときの経つのは、早いよなあ」
 気づけば、今夏、70歳である。

 佳き今日を。