物語を想い出す。
定年を迎え、会社を去る日の話だ。
行きつけの蕎麦屋へ寄り、カレー南蛮を注文したという。
落ちは、ワイシャツを汚さないため食べてこなかっただったか。
正月、カレーが食べたくなるものだ。
※誰が書いたか、忘れた物語。
「なるほど」と想った。
が、「大きなハンカチなり、タオルを用意すればいいだけなのになあ」とも。
www.youtube.com【元気を想う/今日も少しだけ】
東洋医学では確か、「病気ではなく、病人を診る」姿勢ではなかったか。
大切なことだろう。
ウェブで視ると、ナイチンゲールも、そう言っていたそうだが。
病ばかりにとらわれて、人を診ない。
そうした場面は、診察の場面で出遭うものだ。
「ねえ、少しは、わたしのこと(個別のこと)を聴いてよ」というわけである。
今の制度では、致し方ない領域もあるのだろう。
が、そこにつけ入る似非医療も。
禅の世界では、「病気になっても病人にはなるなよ」と言っているそうだ。
なるほど、これまた、「確かに」と。
医療をする側・受ける側双方の姿勢。
「不在だから、求められているのだろうな」
病はあっても、病人にならなければ、不治の病でない限り、治りが早いかも知れないのだ。
仮に治らない病だとしても、元気でいられ、残された人生を愉しめるのかも知れない。
ただ、想う。
病も人も、当たり前のことだが、ともに診て欲しいと。
そうして、「病気になったときぐらい病人になってもいいじゃあないか」とも。
そこを徹底化して、視えてくることもあるのではないかと、ふと。
では、「お前の今後はどうなのか」と問われたのなら、どうか。
よく言われる未病、つまりは病気になる前に手を打っていくしかないのかなと。
もっとも、太極拳やヨーガなどはしているが、健康に悪いことも相変わらず、しているのだったが。
二日酔いの朝に、「偉そうなことは言えないよな」と。
いずれにせよ、断定だけはしたくないのだろう。
何が功を奏するか、分からないのだから。
今年もどうか、ご無事で。
【追記/「ええと」】
すでに夕闇。
「ときの経つのは、早いよなあ」
気づけば、今夏、70歳である。
佳き今日を。