幸せな老後?
人生がもうすぐ、終わりだというときに、成立するのか、どうか。
というより、死が幸せとでも?
ちなみに、何が起きるのか分からないだけに、予断を許さないとはこのことかと。
老後の幸せも遠い。
※今日も見た。
「幸せな老後」という言葉。
あはは、もうすぐ死ぬってときに、幸せなら、死の苦痛は、一方で深まるばかりではと。
www.youtube.com【老いて失っていくもの/今日も少しだけ】
老いて、まずは失われていくのが身体機能と言っていいのではないか。
結果、どうなるか。
社会性を、失っていくのだろう。
出歩くことがなくなれば、当然か。
要は、人や町、施設や情報などとの接点がなくなるのだ。
情報だけでは、空気を味わえない。
これは大切だろう。
記憶も失っていく。
脳にしろ、内臓と考えれば、当然か。
家族もまた、物理的に失われていく。
諍いは起き続けるからだ。
かくして、生きていく自信も、なくなってしまう。
これは、こたえるだろう。
そうした中、それでもなお、失われるだけの人生にしないためには?
失ったものではなく、今、あるものを肯定的にとらえる云々との意見。
わたしには、ときに、「なんじゃらほい」と思えるのだったが。
そもそもが無一文だったという認識。
そのほうが、現実的抵抗力になるのではないのかと。
そうして、品に近い、開かれた自負のような意識があれば、他者と接点はできるのではなかろうかとも。
つまり、社会性をはじめ、記憶、家族、何より生きていく自信もまた、発生し続けるのではというわけだ。
どうか、今日もご無事で。
【追記/「かっこいいな」】
昨日、貼り付けたトレイシー・チャップマンの昔の唄が、あらためて賞をとり、注目されているそうだ。
それにしても、今日貼り付けた映像では、髪にはすでに白いものが。
とはいえだ。
独りスクッと立ち、歌う姿にはやはり、「かっこいいなあ」と。
この人は、決して叫ばなかったなと。
静かな熱。
いろいろなことが伝わってきたのだったが。
佳き日々を。