深呼吸する言葉・ワナタベジンジンタロウ

おっさん中退・ジジイ見習い

ガリ版だってさ/令和問わず語り・129

かつて、ガリ版印刷をしていたことがある。
必死だったが、明るかった記憶がふいに訪れた。
今となれば、稚拙のひと言で、片付けられる?
それはそうなのだが。
それでも、届くよう、丁寧に訴えようとしていた。

※言うべきこと、言いたいことではない。
 言わざるを得ないことに賭けていた。

▲『道へ』(写真)
道ができつつあつた。
想わずデジカメを取り出していたのである。
できつつある道という道。

www.youtube.com【視ていない/今日も少しだけ】
 最近、絵画を、美術館で視ていないことに気づいた。
 脚も疲れているからか。

 絵画を、情報としてではなく、体験として鑑賞すること。
「すっかり遠のいたな」と。

 美術館を中心とした往復もまた、大切なものだ。
 雨が降れば通常、うとましい、寂しい、面倒だといった負の感覚になるものだが、それだけではない感覚にも――。

 まず、その点。
 画家のいる場所に関して想起する契機になるかも知れないのだ。

 20世紀が「戦争と革命」の世紀なら、今世紀は、「情報の体験化、体験の情報化、情報の情報化、体験の体験化」が問われる世紀だと想っている。
 その問いを、まずは体感すること。

 あっという間に経過して来た新世紀の中で、絵画という体験を、体験のまま、情報化せず、今、味わうこと。
 大切なことだ。

 静かな絵筆の臨場感――。
 いわば、雲散霧消していく希薄化するばかりの現在を、実はリアルに感得できる絵画を、希求している。

 無名性、都市の皮膚、あるいは人々の無表情など、視てみたい。
 今は、雨から桜への歩みを、自らに重ねて、想像しているのだったが。
 そう、脳内美術館で。

 どうか、今日も、ご無事で。


【追記/「あらま」】
 アップし忘れていた。
 眠ってしまっていたのである。

 佳き日々を。