認知能力が消える。
結果、好き・嫌いや、快・不快で身心が動くといえば動くのが認知症とか。
が、事実なのかどうかは、分からない。
ふと、健常な状態でさえ、認知はあるのかと。
そも、健常自体どうなのかと。
※認知症で、大便をもてあそぶ人がいる。
好き・嫌い、快・不快の基準も変化しているのか。
認知も、健常と言われる人で違ったりもする。
そもそも、健常とは何か、わたしには、厳密には分からない。
www.youtube.com【必要/今日も少しだけ】
生きていくうえで、大切なことは、何か?
そうした問い自体、大袈裟な感じがする昨今だ。
せめて、「暮らしていくうえで」では、どうなのかと。
衣食住。
そうして、お金か。
医療に福祉、あるいは教育等々、まだまだあるが。
姿勢ということも、大切だろう。
何より、その場所が少しでも自由と感じられると、「いいなあ」と。
自由は恐ろしい云々の物言いは、分かるのだったが。
そうして、ためもまた重要だろう。
人災・災害ではない、辛く、きついことに直面したとき、体験・経験はやはり、役立たない。
そのとき、どれほど、ためが必要かと、痛感しているのだった。
自ら、辛く、きついところを通っていかないといけないときがあるのだろう。
そのとき、ためがまったくなければ、超えてはいけない。
つまり、少しは余裕がある切迫状況に、想いを馳せていたのである
ともあれ、衣食住やお金、自由な感覚、その他諸々が必要なのだ。
どうしても。
どうか、今日も、ご無事で。
【追記/「さてっと」】
今日は2度、歯科医院へ。
整形外科の診療所へも出向いた。
自転車屋を訪ね、プールで歩きもしたのである。
その間、手早くベーコンエッグの朝食、中華丼の昼食、餃子ライスの夕食で腹を満たしもした。
病院疲れを取るために、熱いコーヒーを何杯か、飲んだ。
話題のテレビ番組を視て、笑いもした。
図書館から借りてきたDVDに感嘆も。
前者は、『不適切にもほどがある』。
最終回は生放送にして、実は昭和だったというオチだったら、ゾッとしたのだろうか?
後者は、『スーパー30』。
成功者たちの受験産業に対して、自らの出自から反旗を翻し、貧しき子どもたちに教育を施すという実在の物語のようだ。
映画の能力主義の肯定には批判はあるが、「へえっ、こんないい映画があったんだ」と。
ちなみに、ニコラス・ケイジと阿部寛の子どもでもおかしくはない主人公の顔を視て、「視続けるか」とパソコン画面に向かっていたのだった。
佳き日々を。