祈るのは、何故だろう?
単純に欲のためとも言えるのか。
自らの考えや感覚、感情などに快を与え、暮らしていこうとしての。
そも、心底祈るのは、圧倒的力がない証左でもあるのだろう。
だから、跪くのだった。
【太宰かあ/今日も少しだけ】
太宰治氏の小説『津軽』。
それこそ、大昔、読んだか。
何も覚えていないようだ。
何より、気分を覚えていないのだから、覚えているとは言えないだろう。
「わたしだけに語りかけてくれている」
そうした想いを、読者に醸成させ、ついに、「わたしのことを分かってくれる人が、今、ここにいる」といった感覚へ誘う男。
三島由紀夫は確か、「時代病を作った」と。
大江健三郎同様に。
まさに、青春の巨匠か^^。
平田オリザ氏が朝日新聞で、『津軽』を紹介する文章を読んだ。
不意に、『津軽』の最後の言葉を、あらためて何となく、想い出していたのだったが。
こうだ。
さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行かう。絶望するな。では、失敬。
あはは。
「やるね」
読み続けてきた男から、こんなことを言われたら、たまらなかっただろう。
すかし具合もなかなかだ。
どうか、今日も、ご無事で。
【追記/「やるなあ」】
ちなみに、『津軽』は敗戦の前年に書かれたという。
それを知って、「マジ、やるよなあ」と。
たいしたものだ。
それにしても、貼り付けたページを読み、「ううむ」と。
今や、子ども食堂は、全国に6,000件もあるという。
「ううむ、ううむ」なのだったが。
佳き日々を。