誰が言ったか。
「教えるようになっちゃ、おしまい」と。
その通りだと想いつつ、理由を考えれば答は簡単に出た。
要は、自分に向かうことが疎かになっていくからである。
確かに、教えるようになってはダメか。
※もちろん、自分が自分に教え、学ぶといった文脈について、指摘したいわけではない。
もっと単純なことに関して、伝えたいのだったが。
www.youtube.com【ふいに/今日も少しだけ】
準備万端。
「よっしゃ」
が、突然、出向くのをやめた。
仏教に関する公開講座である。
というのも、前日、瞑想についての公開講座に参加して、「何だかなあ」と。
そう、感じたことを、ふいに想い出したからだ。
まず、話が、残念ながら、よく分からなかったのである。
暗黙の了解である1つひとつの事項を知らなければ、分からなくて当然か。
が、その1つひとつのことにこそ、本来は宿っているのではと。
例えば、止と観。
「もっとそこを語って欲しかったよな」と。
話がレジュメの最後までいかなかったことにも、呆れた。
著名な学者にも関わらずだ。
何より、ワークショップをしなかった点なども、「ううむ」と。
テーマは、瞑想だったのである。
瞑想は、実践ではないのかと。
教室の寒さに耐えられないということもあった。
みな、上着を羽織り、中には昼寝に来たとしか想えないノー・マスク派の中高年も。
地球がやばいという折、何をしているんだか。
「いたたまれないよなあ」
そう、感じていた。
テーマは瞑想なのに、その実相が一向に視えて来ないのだった。
というわけで、翌日の仏教講座には出向かず、ウェブで拝聴することにしたのである。
が、これまた、集中力が続かないのでもあったが。
「もう、ながら勉強は無理なんだよなあ」
そう、痛感させられていた。
瞑想とは遠いか。
どうか、今日も、ご無事で。
【追記/「お経もやばいよなあ」】
ウェブで拝聴した講座で、1つ勉強になったことがある。
「他を批判するつもりはないが」と断わったうえで、講師は、「南無阿弥陀仏こそ、お釈迦様が唱えたお経」みたいなことを指摘したのだった。
本当か、どうかは知らない。
南無阿弥陀仏の意味だが、ウェブには、こうあった。
「私たちは悟りを開いた者(仏様)にすがって全てをお任せします。私たちは悟りを開いた者(仏様)に心から従いますといった誓いの言葉になるとされています」
「やばいのではないのか」
あなた任せでいいのかと。
佳き今日を。