深呼吸する言葉・ワナタベジンジンタロウ

おっさん中退・ジジイ見習い

その理由/言葉・244

誰が言ったか。
「教えるようになっちゃ、おしまい」と。
その通りだと想いつつ、理由を考えれば答は簡単に出た。
要は、自分に向かうことが疎かになっていくからである。
確かに、教えるようになってはダメか。

※もちろん、自分が自分に教え、学ぶといった文脈について、指摘したいわけではない。
 もっと単純なことに関して、伝えたいのだったが。

▲『神仏も大忙し』(写真)
多くの願い・祈り。
そのすべてが叶うわけではない。
とはいえ、思わず手のひらを合わせる?

www.youtube.com【ふいに/今日も少しだけ】
 準備万端。
「よっしゃ」

 が、突然、出向くのをやめた。
 仏教に関する公開講座である。

 というのも、前日、瞑想についての公開講座に参加して、「何だかなあ」と。
 そう、感じたことを、ふいに想い出したからだ。

 まず、話が、残念ながら、よく分からなかったのである。
 暗黙の了解である1つひとつの事項を知らなければ、分からなくて当然か。

 が、その1つひとつのことにこそ、本来は宿っているのではと。
 例えば、止と観。
「もっとそこを語って欲しかったよな」と。

 話がレジュメの最後までいかなかったことにも、呆れた。
 著名な学者にも関わらずだ。

 何より、ワークショップをしなかった点なども、「ううむ」と。
 テーマは、瞑想だったのである。
 瞑想は、実践ではないのかと。

 教室の寒さに耐えられないということもあった。
 みな、上着を羽織り、中には昼寝に来たとしか想えないノー・マスク派の中高年も。
 地球がやばいという折、何をしているんだか。

「いたたまれないよなあ」
 そう、感じていた。
 テーマは瞑想なのに、その実相が一向に視えて来ないのだった。

 というわけで、翌日の仏教講座には出向かず、ウェブで拝聴することにしたのである。
 が、これまた、集中力が続かないのでもあったが。

「もう、ながら勉強は無理なんだよなあ」
 そう、痛感させられていた。
 瞑想とは遠いか。

 どうか、今日も、ご無事で。


【追記/「お経もやばいよなあ」】
 ウェブで拝聴した講座で、1つ勉強になったことがある。
「他を批判するつもりはないが」と断わったうえで、講師は、「南無阿弥陀仏こそ、お釈迦様が唱えたお経」みたいなことを指摘したのだった。
 本当か、どうかは知らない。

 南無阿弥陀仏の意味だが、ウェブには、こうあった。
「私たちは悟りを開いた者(仏様)にすがって全てをお任せします。私たちは悟りを開いた者(仏様)に心から従いますといった誓いの言葉になるとされています」

「やばいのではないのか」
 あなた任せでいいのかと。
 佳き今日を。