「自分は差別されていない」
が、そう想い込まされているだけではないのか。
実は、区別されているのかも。
そもそも、差別されていないという想い自体、差別の結果だとしたら?
緻密で巧妙な罠がそこかしこに。
▲『お疲れさま』(写真)
この暑さのなか、じっと放置されている――。
想わず、「お疲れさん」と。
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▲久しぶりに、聴いた。
「なるほど、いいね」
【逆切れするおっさん/今日も少しだけ】
図書館の駐輪場でのこと。
本来、走るべき場所でないところを、おっさんが走ってきた。
「やべっ」と。
だから、言葉に出た。
「危ねえじゃないか」
すると、おっさんは、切れた。
いわゆる逆切れというやつか。
何やらほざいて、去って行った。
背中に、罵声を浴びせる。
すると、あはは、カチンと来たようで、何やらほざくために、戻って来た。
こちらは、急ぐ用件もあり、「はいはい、ありがとうございます」と切り上げることにした。
すると、「感謝しろ」だの何だの、のたもうてきたのである。
直感していた。
「あれこれ、巧くいっていないんだろうなあ」
最近読んだ、『ねえさんの青いヒシャブ』(BL出版)という絵本の言葉を想起していた。
こうだ。
「いじわるな言葉は、それを言った人のものよ」
どうか、今日も、ご無事で。
逆切れならまだしも、か。
そう、この世では戦争が続いているのだったが。
どうか、再び、今日もご無事で。
【追記/「さてっと」】
林達夫氏の言葉を紹介したい。
こうだ。
「この世において、どんなに卑しむべき行為でも、その気になりさえすれば立派に思想的に正当化できないものはただ一つもない」
佳き日々を。