深呼吸する言葉・ワナタベジンジンタロウ

おっさん中退・ジジイ見習い

焼きそばは美味しいのか?/食卓慕情・52

飲み物をとろうと図書館の休憩室へ。
すると、キャリーバックを引く中年手前の女性が。
手洗い場の湯を、焼きそばのカップ麺に入れたのだった。
そうして、嬉しそうに食べ始めたのである。
音を立てないように。

▲『椅子とテーブル』(写真)
 公園へ。
「おっ」
 椅子となり、テーブルにもなってくれた。
 枕にはしなかったのは、虫等がいたからである。

www.youtube.com▲なかなかにいいなと。
 巧いだけではなく、音楽を感得できたのだった。


【言葉について/今日も少しだけ】
 友人とのやり取りは続いている。
 彼は、書いてきた。
 こうだ。

>『YOUは何しに日本へ』というテレ東の番組を観ていると、たまに日本語を話せる外国人がいて、「日本語お上手ですね」なんて云われると、「いえいえまだまだです」とか、謙遜する場合がほとんどだ。
 これは、常々不思議に思っていた。
 日本語を学ぶ人は元々謙虚なのか、日本語を話すと自ずとそうなってしまうのか。

 そうして、こう続く。

内田樹がどっかで書いていたが、アメリカだかの空港のカウンターで並んでいて、自分の番になったのだが、受付の人が仲間とおしゃべりをしていて20分ほど待たされた。
 さすがに堪忍袋の緒が切れて、英語で抗議の言葉をまくし立てたのだが、その時、自分でもビックリするほど、スムーズに英語が口をついて出たのだという。
 つまり彼が云うには、英語はそうした場面に適した言語なのだろうということだ。
 また、他の著作でこうも云っている、
高島俊男が言うように、ことばはつねに『この観念を生んだ種族の思想――すなわちものの考えかた、世界と人間のとらえかた――を濃厚にふくんで』います」
 さらに、こうも断言している、
「『私が語っているときに私の中で語っているもの』は、まずそのかなりの部分が『他人のことば』だとみなして大過ありません。(現に、私は確信を込めてこう断言していますが、そんなことができるのは、私がいま『ラカンの意見』を請け売りしているからです。)」
「『私が語る』とき、そのことばは国語の規則に縛られ、語彙に規定されているばかりか、そもそも『語られている内容』さえその大半は他人からのことば、ということになると、『私が語る』という言い方さえ気恥ずかしくなってきます。
 私が語っているとき、そこで語られていることの『起源』はほとんどが『私の外部』にあるのですから。」
 と、請け売りをしてみた。

 わたしは、「なるほどね」と。
 友あり、人の言葉とともに。

 どうか、今日も、ご無事で。


【追記/「さてっと」】
 気づけば、寝ていた。
 このところの暑さは、トホホどころではなく、身体に来ているのだったが。
 佳き日々を。