飲み物をとろうと図書館の休憩室へ。
すると、キャリーバックを引く中年手前の女性が。
手洗い場の湯を、焼きそばのカップ麺に入れたのだった。
そうして、嬉しそうに食べ始めたのである。
音を立てないように。
▲『椅子とテーブル』(写真)
公園へ。
「おっ」
椅子となり、テーブルにもなってくれた。
枕にはしなかったのは、虫等がいたからである。
www.youtube.com▲なかなかにいいなと。
巧いだけではなく、音楽を感得できたのだった。
【言葉について/今日も少しだけ】
友人とのやり取りは続いている。
彼は、書いてきた。
こうだ。
>『YOUは何しに日本へ』というテレ東の番組を観ていると、たまに日本語を話せる外国人がいて、「日本語お上手ですね」なんて云われると、「いえいえまだまだです」とか、謙遜する場合がほとんどだ。
これは、常々不思議に思っていた。
日本語を学ぶ人は元々謙虚なのか、日本語を話すと自ずとそうなってしまうのか。
そうして、こう続く。
>内田樹がどっかで書いていたが、アメリカだかの空港のカウンターで並んでいて、自分の番になったのだが、受付の人が仲間とおしゃべりをしていて20分ほど待たされた。
さすがに堪忍袋の緒が切れて、英語で抗議の言葉をまくし立てたのだが、その時、自分でもビックリするほど、スムーズに英語が口をついて出たのだという。
つまり彼が云うには、英語はそうした場面に適した言語なのだろうということだ。
また、他の著作でこうも云っている、
「高島俊男が言うように、ことばはつねに『この観念を生んだ種族の思想――すなわちものの考えかた、世界と人間のとらえかた――を濃厚にふくんで』います」
さらに、こうも断言している、
「『私が語っているときに私の中で語っているもの』は、まずそのかなりの部分が『他人のことば』だとみなして大過ありません。(現に、私は確信を込めてこう断言していますが、そんなことができるのは、私がいま『ラカンの意見』を請け売りしているからです。)」
「『私が語る』とき、そのことばは国語の規則に縛られ、語彙に規定されているばかりか、そもそも『語られている内容』さえその大半は他人からのことば、ということになると、『私が語る』という言い方さえ気恥ずかしくなってきます。
私が語っているとき、そこで語られていることの『起源』はほとんどが『私の外部』にあるのですから。」
と、請け売りをしてみた。
わたしは、「なるほどね」と。
友あり、人の言葉とともに。
どうか、今日も、ご無事で。
【追記/「さてっと」】
気づけば、寝ていた。
このところの暑さは、トホホどころではなく、身体に来ているのだったが。
佳き日々を。